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世界政治同時進行世界史&日本史 聖徳太子 2024.1.15

 聖徳太子(5742.7-622.4.8)
 妻 膳部菩岐岐美郎女(カシワデノオオキミノイラツメ. -622.4.7、膳臣傾子
   カシワデオミカタブコの娘)
 娘 春米女王(ツキシネノヒメミコ、異母兄弟山背大兄王の妻、-643.12.30、
  日本書紀には、上宮大娘姫王、子難波麻呂古王683.9生存確認日本書紀に
  記載、弓削王644.1.5蘇我入鹿軍)
 妻 刀自古郎女(トジコノイラツメ、父:蘇我馬子、崇峻天皇[欽明天皇子、蘇我稲目孫]女御の河上娘妹)
 長男 山背大兄王(山代大兄王、ヤマセノオオエオウ、-643.12.30)
  欽明天皇子の敏達天皇と広媛との子の舒明天皇が即位。
  舒明天皇兄弟に皇極天皇、孝徳天皇が居る。
 妻 橘大郎女(タチバナノオオイラツメ、位奈部橘王、敏達天皇の尾張皇子
  の子)
 子 白髪部王
 妻 菟道貝蛸皇女(ウジノカイタコノミコ、敏達天皇ー推古天皇子 日本書紀敏達7年項に菟道皇女伊勢神宮巫女となったが、直ぐ殺されたと記載)
 天照大神系統で無ければ、こうなります。御免なさい。

天皇系列
欽明天皇(539.12.30-571.5.24)母手白香皇女
敏達天皇(572.4.30-585.9.14)母宣下天皇石姫皇女
用明天皇(585.10.3-587.5.21)母蘇我堅塩姫🟣
崇峻天皇(587.9.9-592.12.12)母蘇我小姉君🟣
推古天皇(593.1.15-628.4.15)母蘇我堅塩姫🟣
舒明天皇(629.2.2-641.11.17)母敏達天皇糠手姫皇女
皇極天皇(642.2.19-645.7.12)母欽明天皇皇孫吉備姫王
孝徳天皇(645.7.12-654.11.24)母同上
斉明天皇(655.2.14-661.8.24) 本朝側天皇も兼務👈水城築城
 父本朝側天皇アメノタリシヒコ、母膳部菩岐岐美郎女
天智天皇(661.2.20-672.2.17)母皇極天皇
弘文天皇(672.1.9-672.8.12)大友又は伊賀宅子娘
天武天皇(673.3.20-686.10.1)母斉明天皇

 母親が蘇我氏の天皇が三代続いて居ます。邪馬台国は潰しました。
其の蘇我氏は、645年7月12日に遣られました。
 継体記の磐井の乱平定後、物部アラカイに対して、西を取れ、東を治めると、有ります。
 髪長姫系統以外の崇神天皇系列の(哲)、満ー武烈天皇、牛慈ー葛子を潰したのです。ーこんな事するから、戦闘員の毛野氏は、気が入りません。英彦山もやりました。
 倭国本朝の始まりです。羅城(芥川龍之介の羅生門です。アレは京都?)の有る、太宰府ー都督府は、西暦240年頃から創って居ました。
 隋書や北史に、娘5~600人居ると記載されて居ます。中国史は消えません。
 姓は阿毎、名はタリシヒコと記載されて居ます。此の人が出したのです。
 「日の出る処の天子、日の没する処の天子に書を致す。恙きや。」
 589年東朝四万人に本朝兵を加えて、陳に遠征した甲斐が無く、4年後に帰朝して、よっぽど悔しかったのでしょう。👈隋の始皇帝の三訓に、倭に気を付けよ、と有ります。
 
 上のまとめを見れば判ります。聖徳太子は、622年4月8日に遣られて居ます。前日の4月7日に、妻の膳部菩岐岐美郎女が遣られて居ます。

 太宰府に侵入して遣ったのでしょうか。
陳迄遠征して居る戦闘能力の高さは、何処へ行ったのでしょうか?
其の名が泣きます。

 娘の春米女王が、異母兄弟の山背大兄王の妻となって居ます。
643年12月30日に蘇我入鹿軍に遣られたと有ります。

 天皇系列から蘇我氏を排斥しようと云う、策謀が明瞭に見えて居ます。
皇極天皇は、欽明天皇皇孫です。蘇我氏の指示に従うでしょうか?
 本当は、家臣に行橋市に総引上げを食い、半年後に崩御した本朝側の天皇では、無いでしょうか?
 本朝側が、蘇我入鹿と蝦夷を殺害したのです。陳で実戦をして来て居るのです。やられれば、当然遣り返します。
 皇極天皇は突然姿を消し、中大兄皇子が継承では無く、孝徳天皇が、即即位ですか?
 おかしいでしょ。綏靖天皇だって、手研耳尊を射って天皇となったのです。

641年に柿本人麿が香春岳で、銭を作る役人になって居ます。645年製造の銅銭の、開の上の抜けた、和同開珎が有ります。

 中大兄皇子では無く、此、祖父母と父を遣られて、怒り狂った、大海人皇子でしょ。以後661年迄、ズーッと、斉明天皇です。
 万葉集の103番藤原夫人、104番天武天皇の仲の良い歌の掛け合いが載って居ます。
 天智天皇は、自殺の名所の玄界灘に飛び込み自殺して居ます。万葉集153番歌に倭皇后の憐む歌が有ります。神功皇后の逆コースを一緒に辿った柿本人麿(万葉集に歌が載って居ます。)が、回収して居ます。お墓も有ります。
 藤原姓は、天武天皇に貰ったのです。
 大海人皇子は660年10月百済戦争に参加して捕虜となり、664年帰国です。

  壬申の乱って、672年でしょうかね?又、書くと、長くなりそうですから、止めて置きます。

 斉明天皇って、春目女王でしょ。日本書紀には、上宮大娘姫王って記載されて居ます。子の難波麻呂古王も、約40年後生存確認されて居ます。母親が居なければ、生存出来ません。

 年老いた女性の元天皇が、治療を受けて居るとの記載が有ります。

 蘇我氏系子孫の舎人親王って、賢いのです。日本書紀を読めば、其の頭の良さが判ります。




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