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歴史変動31 2023.2.22

 景行天皇記に出て来る川上建は、崇神天皇の可能性が有ります。

 弟は、知古では無いでしょうか?

 此場合、崇神天皇は、都怒我阿羅斯等となります。

 子供の豊樹入彦命は、上毛野に逃げたのでしょう。

 お墓は何処に有るのでしょうか?

 倭国が飢餓で、農民が辰韓に逃げた179年即位とすれば、68年後は、247年となります。
 卑弥呼の没した年となります。
 第一代日本武尊(誉津別尊)に殺されたのでしょう。
 誉津別尊の在位は、239年~247年です。
 247年の千人以上が死んだ大イクサにより、卑弥呼【神夏磯媛、岩波文庫日本書紀(二)P66L10 12年9月条に只1度ダケ記載、狗奴国の卑弥久呼ー景行天皇に、帰順して居ます。(狗奴国の熊襲と薩摩隼人は親戚関係です。)だから、壱与(八坂入媛)は266年に景行天皇の皇后となったのです。】、第一代日本武尊(チャント天皇の称号が付いて居ます。)、崇神天皇が崩御した事になります。
チャント、鎧塚古墳其の他に、白鳥の様に飛び去って居ます。
 248年に倭姫が1年間ダケ天皇となったのでしょう。
 266年に薨去したのは、第二代日本武尊(誉津別尊の長男)です。
 其れは、叔母様で其の当時福岡県に有った伊勢神宮宮司の倭姫から、草薙剣を受け取ります。

 何度も記載致しますが、邪馬台国は、薩摩ー鹿児島県です。
 一族のお墓は、山川成川遺跡です。卑弥呼のお墓は、厳重に護られて居ります。


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