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国際政治同時進行世界史&日本史 蛇行剣 2024.3.19

 本日、日本銀行総裁の記者会見が有り、公定歩合がマイナス金利政策から変更となり、0.1%上昇しました。
 奈良県北西部にある、四世紀後半ー370年頃?ーの富雄丸山古墳の入り口部から1丈の長さの、日本最大の蛇行剣が発見され、3月15日にテレビで特集されました。
 ほんの洒落で、此の古墳の埋葬者を推察してみます。
 
 413年東晋朝貢の倭王は、狗奴國王で、讃と思われます。(晉書に名の記載無し)
讃の父は、404年崩御の応神天皇(和風諡号 誉田天皇、イヤ、誉田別尊)です。
 倭王の古墳は、大王の崩御年代と古墳建造年代がほぼ一致し、大阪府に在る巨大古墳です。
 垂仁天皇、景行天皇が、呉の孫権軍襲来対応で、三世紀に纏向遺跡を奈良県に建設して居ますので、狗奴國、後の倭国本朝は、四世紀には、近畿地方に進出して居ました。
 大王遷都に伴って、孝昭天皇を祖とする、和珥氏(ワニウジ)も移動して居ます。近郊の東大寺山古墳からは中平年間の銘大刀が出土して居ます。
 此の付近の年代の和珥氏の有名人には、神功皇后に付き従って、新羅征伐を行い、仲哀天皇子息の忍熊尊を征伐した、武振熊が居ます。彼は、356年の神功皇后征西~408年即位の仁徳天皇迄、支えて居ます。
 富士山本浅間神社の大宮司家ー富士氏系図では、370年頃に他界したのは、父は大口納宿禰、祖父を彦国茸として居ます。
 又、京都府宮津市の籠神社に有る海部氏系図の19代目に建振熊の記載が有ります。
 四世紀後半に生じた、倭国本朝政権の、奈良県の佐紀から大阪府の河内への移動や、其の後の丹後勢力の衰退が記録されて居ます。
 仲哀天皇には、但馬の国で神功皇后(気長足姫)と付き合った天皇、山口県で牛マロビと戦った天皇、流れ矢に当たり崩御した天皇、第一代日本武尊天皇次男(の子、息長氏)で琴を弾き乍崩御した天皇の四人が居ます。如何なって居るのでしょうか?
 仲哀天皇には、忍熊尊、籠坂命以外に誉屋別皇子と云う子が居ます。
第一代日本武尊ー誉津別尊の子に、息長田別王(第二代日本武尊、崇神天皇に武尊を貰った命)と書かれて居ます。此の子孫が、仲哀天皇の妃の弟日売真若比売姫ー弟姫で、誉屋別皇子の母です。其の子かも知れません。
 364年神功皇后は、新羅の奈勿尼師今に嫁ぎ、応神天皇(誉田別天皇364~404年在位)により、新羅から秦氏の上陸が許可されて居ます。
 380年代後半、倭王讃ー意富富(手ヘンに矛、ボウ)王の子の嘉ー日本名、阿居乃王ー日本書紀では菟道稚郎子ーが、高句麗好太王からの書を使者の眼前で床に叩き付け、高句麗との全面戦争が開始されました。

 是等から推察すると、富雄丸山古墳は、天皇系列では、誉屋別皇子、和珥氏では、武振熊の父の大口納宿禰又は、祖父の彦国茸の可能性が有ります。

 此れは、小生の持つ書類からの推量です。今後の解明に期待致します。


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