見出し画像

言葉にまつわる、いくつかの記憶

 母さんは言葉の遅い子だったらしい。2歳を過ぎてもほとんどしゃべらず、心配したままちゃんは徳島(じいじの実家ね)のおばあちゃんに相談したという。相談されたおばあちゃんは徳島においでと言い、ままちゃんはその通りにした。多分、家族みんなで徳島に行ったんじゃないかな。君たちも知っての通り、母さんの下には年子の弟が二人いて、さすがにじいじが二人の面倒を一人で見たとも思えず、かと言ってままちゃん一人で三人の子連れで千葉から徳島まで旅行するのも大変だ。その時のことで母さんが聞いているのは、おばあちゃんが2歳の母さんを抱っこして数日間話しかけていたら、あっという間にしゃべり始めたという、そのことだけだ。

 子どもの頃は、そんな話を聞かされても「ふーん」と思うだけだった。自分たち三人姉弟が年子だったという事についても、大人になってから「家族計画とか考えてなかったのかな」と思ったくらいで、親としてのしんどさについて具体的に思いを巡らすことはほとんどなかった。
 母さんの言葉が遅かったのがどうしてか、子育てと家事に追われる暮らしがどんなだったか、自分が子育てをし始めてから、少しずつ理解というか想像ができるようになっていった。それも渦中にある時ではなく、自分の子育てを振り返りながらだったから、似たようなことを繰り返していた面もあったろうと思う。
 例えば、一番上の君の時は、生まれてしばらくはあまり話しかけていなかったと思う。言葉を発することのない赤ちゃんに話しかけることの意味が分かっておらず、いわゆる「赤ちゃん言葉」で話しかけることは恥ずかしいとすら思っていた。全くの無言ではなかったにしろ、二人で家にいる時、何かを話しかけていたという記憶はあまりない。離乳食をあげるようになってからは、さすがに何か声を掛けていたと思うけど、その頃までは黙々とおむつを替え、おっぱいをあげていたんじゃないかな。
 一番上の君が1歳を過ぎたころ、今も活動をしている子育て支援団体のスタッフになり、そこで他のお母さんたちの振る舞いを見て、はじめてオヤ?と思った。中でも、君と同い年の1歳の子に、まるで大人に話すようにひっきりなしに状況を説明しているお母さんの姿には驚いた。子連れで活動していると、子どもたちは大人たちの都合であちこちに連れまわされる。放っておかれたり、お母さんと離れたりするよりは良いと思うこともできるし、話したところで大半を子どもは理解できないのだから、単なる親の気休めと捉えることもできる。けれども、これからどこに行くのか、どんなところか、何をするのかを、赤ちゃん言葉を使うでもなく語りかけているその人の姿は、何だかとても自然で楽しそうだった。

 そうした場でたくさんの親子と交わったおかげか、君たちは2歳を迎える頃には、すっかりおしゃべりに育った。ちなみに、どの子も初めて口にした言葉はママでもパパでもなかった。一番上の君はバスを指さして、「ば、ば」と口にしたのが初めての発語だったと思う。母さんが家事をしている間、父さんはよく君を抱っこして、7階のベランダから近くの大通りを一緒に見下ろしていた。そんなある夜のできごとだった。二番目の君はおっぱいの「ぱい」だった。君が生まれた頃には、母さんは君たちを連れてあちこちに出かけていたけれど、出かけた先でもスリングで抱っこしながら授乳服でさっとおっぱいをあげていた。色んな場所に連れられて、大きな子たちにもまれる日々も、おっぱいのリクエストには母さんはいつだって応えられた。三番目の君はアンパンマンの「ぱんまん」だった。一番最初に覚えて、ずっと大好きなキャラクターだった。
 いずれも母さんや父さんへの呼びかけではなく、好きなもの興味あるものの名前だったことはちょっと興味深い。

 母さんが初めて何と言ったのか、そういえば聞いたことがない。だけど、2歳の頃の写真ですごく印象に残っている一枚がある。それには姉弟3人が写っている。0歳とおぼしき末っ子の赤ちゃんの口の周りには白い粉がべったりとくっついていて、畳の上にはクリープ(コーヒーに入れるクリームの粉ね)の瓶が転がっており、白い粉が盛大にぶちまけられている。思わず吹き出してしまうような一枚で、シャッターを切ったじいじかままちゃんも笑いながらファインダーをのぞいていたに違いない。
 子どもの頃は、アルバムの中のその写真を見てただただおかしくて笑っていた。その写真と、言葉が遅かったという自分のエピソード、二つの記憶が重なったのは、割と最近のことだ。
 じいじは子育てや家事に手を出す人ではなかったし、ままちゃんは家事を完璧にこなす人だった。そんななかでの年子三人の子育ては過酷だったろう。三人の誕生月は11月→12月→3月だから、生まれた子が6ヶ月にならないうちに次の子を妊娠していたことになる。おまけに、二人目の妊娠時にはかなり重い妊娠中毒症で、出産をあきらめるよう医師に勧められたりもしたという。
 実家を離れての慣れない子育ての中で、家事で手が離せなかったり、大好きな裁縫に打ち込んだりする間、子どもたちは別室で過ごすことも多かったかもしれない。
 おばあちゃんと孫との、姉弟同士の、微笑ましい光景の裏側には、孤軍奮闘するままちゃんの苦労があったのだろうなぁと母さんは想像して、少し胸が痛んだのだった。

 家事はだいぶ疎かにしていた母さんが、君たちとのコミュニケーションをを大切にできていたかは分からない。語りかけることの楽しさ、君たちから返ってくる言葉の面白さを味わいつつも、時に乱暴な言葉や粗雑な振る舞いで君たちを傷つけることもあったんじゃないかと思う。
 言葉や振る舞いの裏側にある意識―君たちとの関係性についてどう捉えていたのかについて、母さんは気づかされたり、考えさせられたりの連続だった。それは、まだ理解できてもいない言葉をあえて使ってしまうなら、「人権意識」の無さということになるのだろう。親だから、大人だからと、君たちを下に見たり、軽くあしらったりということは、確実にあったはずだ。
 その時、君たちの目に母さんはどんな風に映り、母さんの言葉をどう受け取ったのだろう。これも、想像すると少し胸が痛む。

 文字通り、温かい思い出もある。一番上の君と、二人でお風呂に入っていた時。君は3歳くらいだったかな。湯船の中で母さんは君を抱っこしていた。気持ちイイねとか声を掛けていたんだと思う。君は母さんを見上げながら、「温かい?」と訊ねた。母さんが答える間もなく、「ぬるい?」、「熱い?」、「ちょうどいい?」と矢継ぎ早に聞いた。母さんの表情を見逃すまいとまっすぐ向けられた眼差しを感じて、「温かくて、ちょうどいいね」と答えながら、じんわりと感動に浸った。人間が言葉を覚えようと試みる、その瞬間に立ち会ったという気がした。初めて立ったとか、歩いたとかいうのとはまた少し違う、不思議な感慨だった。

 君たちとは、これからもたくさんの言葉を交わすのかな。乗せる気持ちも、色合いも、温度も様々な言葉の連なり。もう大人同士だから、上から言葉をぶちまけるような、かつての過ちはあまりしないで済むのかな。そろそろ、君たちに諭されたり、教わったりが増えるのかもしれないね。
 もし、君たちから君たちの子を託されるようなことがあったら、徳島のおばあちゃんのように、ひざに乗せて、たくさんおしゃべりを聞いて、ゆっくりゆっくり語りかけてあげたいな。母さんにはその時の記憶はないのだけれど。

2024年6月20日 双子座太陽期の最後の夕暮れに


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?