スピリチュアルとはなにか。

人間はスピリチュアルを持っている。それは、物質的なものでは割り切れない「何か」を信じたいという気持ちである。

この「何か」とは、形而上の存在である。

形而上の存在とは、質量を伴って存在し、直感的に実感できるものではなく。意識しないと知覚できない「考えた時にだけ重さが与えられる存在」のことである。

この形而上の性質を持つものには「人間とは何か・生きる意味・愛・友情・家族・世界・魂・神」などがある。

形而上学は第一哲学または神学と呼ばれ、あらゆる存在者を存在者たらしめている根拠を探究する学問(よくわからん)である…つまり、人間は本質的に形而上学的な問いかけを持っており、これは人間にとって実存的問題でもある。

実存とは自分というこの存在のことで、本質とは運命を指す。人間は、既にあるなんらかの本質に支配された存在では決してなく、自分の未来を自分自身で切り開いていくべき「実存的存在」に他ならず、そのため人間は常に超自然的な存在を求めながらも、それによって支配されず、能動的に生きていくための問いを持っている。

そして、その(人間が人間という存在に物質以上の価値を見出したいと思うスピリチュアルな心から湧き出る)問いが「人間はなぜ生きるのか」であり、この実存的問題(その問いと答えによって人間は既存の枠組み、それは恐らく空間と時間の制約の次にある制約だと思う…から解放されて自由に生きる力を得る、そのための問い)に応えるのが形而上学であり神学を基礎とした宗教のはずなのだ。しかし、身近にある宗教は、宗教上の超自然的な理に支配されこの機能を果たしておらず、形而上の問題を扱うジャンルが宗教しかない。

近年までの宗教問題で、宗教そのものが疎んじられた結果。我々は健康に生きるための柱を失おうとしている。それでも何とかなっているのは、神道が生活に溶け込んでいるが故に、日本独自の高い道徳心を養い維持できているからだ。

これから少子化に伴った大量の移民が流入し、それは同時に異文化と異宗教が日本を変えていくということだ。その濁流の中に生きながら我々は「なぜ生きるのか」という問いに対する答えを求めなければならない。

しかし、それは宗教が得意とする「死後や前世の世界」「超越存在」による支配的な解決であってはならない…何故ならば、人間とは実存的な存在であるからだ。

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