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オーストリア・ハンガリー海軍の歴史


たまたま機会があり、オーストリア・ハンガリー海軍について調べ始めたところこれが思いのほか面白かった。前身のオーストリア海軍を含めてもその歴史はせいぜい一世紀ほどなのだが、山あり谷ありで飽きさせない。
なお、オーストリア・ハンガリー海軍の仮想敵は一貫してイタリアなのでイタリアの政情(特に統一運動)に大きく影響されている。

オーストリアと海との関わりは1382年にアドリア海に面する港湾都市トリエステ Trieste がハプスブルク家の支配下に入ったことから始まる。しかし当時の都市は自治権が強く、またすぐ隣に当時ヨーロッパ最強の海軍国であるベネチア Venezia があり制海権をがっちり握っていた。ハプスブルク家としてはトリエステ市に任せっぱなしで国家としての海洋政策は存在しない時代が長く続いた。
はるか400年が経過した1786年にいたって初めて国家の機関としてのオーストリア海軍が創設された。しかし時代はフランス革命前夜で、まもなくオーストリアは革命戦争に続くナポレオン戦争に巻き込まれ海軍どころではなかった。
ナポレオン戦争終結後の1814年、かつてのベネチア領がオーストリアに与えられ、実質的にはここからオーストリア海軍の歴史が始まる。ナポレオンに滅ぼされるまでベネチア共和国は本国とイタリア本土のいわゆるベネト地方、アドリア海東岸のダルマチア地方を領有していたがこれらの地方がオーストリアの支配下に入った。
なおオーストリアの海岸線の大半を占めるダルマチア地方は好泊地となりうる湾入を多く持つ地形だが、その一方で後背地が険しい山地をなし内陸部への交通路となる道路や河川に乏しく、交易拠点や補給基地とはなりにくい。必然的にオーストリア海軍の拠点はアドリア海最奥のイストリア半島周辺に置かれることになった。

(ここでひとつお断り。現在ベルギーとなっているネーデルラントや、イタリア南部のナポリ・シチリアがオーストリアの支配下にあった時期もある。またドナウ川では現在までも河防艦隊を運用している。これらについては不勉強でもあり割愛させていただきます)

海軍国ベネチアの領土や施設をそのまま引き継いだことから、初期のオーストリア海軍は必然的にベネチアの影響を強く受けた。ベネチアが主要基地となり士官や船員の多くをベネチア人が占め、運用もベネチア式を踏襲した。
この間、オーストリア海軍が関与したのは1827-30年のギリシャ独立戦争、また1840年のトルコ・エジプト戦争などだが、それほど大きな役割を果たしたわけではなかった。
1844年、皇帝の従兄弟にあたるフリードリヒ大公 Erzherzog Friedrich Ferdinand (1821-1847) が23歳で海軍総司令官に就任した。若年の皇族と聞くとお飾りのように思えるが、彼は逆にその立場を利用して海軍の地位向上に邁進し、またベネチアの影響が強かった海軍の「オーストリア化」を推し進めた。しかし大公は3年後わずか26歳で亡くなり、改革は中断した。

その翌年、1848年にパリで起こった革命はまたたく間にヨーロッパ中に広がり、ウィーンでも皇帝が退位を余儀なくされ、甥のフランツ・ヨーゼフ Franz Josef I (1830-1916) が代わって即位した。海軍の拠点であるベネチアでも不安が広がった。
当時のイタリアは北西部のトリノを首都とするサルデニア王国、ミラノやベネチアを含むオーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国、南部の両シチリア王国(ナポリ王国)、中部ローマの教皇領などに分裂していて、統一は民族の悲願だった。
その運動を主導するサルデニアが、統一を目指してオーストリアに宣戦する。イタリアではこれを第一次独立戦争と称する。ベネチアに所在していたオーストリア艦隊は動揺した。乗員の多くを占めるベネチア人の動向が信用できなかったのだ。一部の乗員が基地司令官を拘束するにいたって艦隊司令官はベネチア出身者の退艦と帰郷を命じた。もちろん艦隊は機能不全に陥ったが反乱を起こされるよりはマシと判断したのだ。
サルデニア軍はベネチアを占拠したが乗員がいないため在泊艦を焼き払うに留まった。そうこうするうちにオーストリア軍はロシアの支援を得て態勢を取り戻してきた。オーストリア軍はイタリアに侵攻しサルデニア軍を駆逐、国王は退位して講和が結ばれた。第一次独立戦争はイタリアの敗北で終わった。結果としてこの戦争はオーストリア海軍のオーストリア化、非イタリア化を加速したことになる。

1854年、新たな海軍総司令官に皇帝の弟であるマキシミリアン大公 Erzherzog Ferdinand Maximilian (1832-1867) が就任した。ときに22歳。フリードリヒ大公の最年少記録を更新したのだが、この大公も飾り物ではなかった。ベネチアやトリエステ、ポーラ Pola といった軍港の整備に力を入れた。特にポーラはそれまで小規模な地方都市に過ぎなかったが、最終的にオーストリア海軍の主要拠点となった。さらに当時普及しつつあった蒸気軍艦の取得も推し進め、国内での建造も始めた。また兄皇帝に迫って独立した海軍省を設立させるなど制度の整備も図った。大公は1857年にロンバルディ総督に任じられて実務から遠ざけられるが、1865年にメキシコ皇帝に即位するまで名目上は海軍総司令官にとどまった。
1859年にサルデニア王国がオーストリアに対して宣戦して第二次独立戦争が始まった。第一次戦争で味方のいない悲哀を味わったサルデニアは、1855年クリミア戦争において英仏に組みしてロシアと戦った。その見返りとして今回の戦争ではフランスの支援を得られることになる。フランスとサルデニアの連合軍は迅速にオーストリア軍を撃破し、オーストリアはミラノを含むロンバルディ地方を割譲する。ベネチアはオーストリアの手に残るが、勢いに乗るサルデニアはガリバルディの活躍もありベネト地方とローマを除く大半を掌握、統一イタリア王国の樹立を宣言した。
第二次独立戦争では陸戦で早々に勝敗が決してしまい海軍の出番がなかったが、アドリア海の対岸に統一イタリアが出現するという新情勢に対応する必要があった。ちょうど1860年代は軍艦の装甲化が本格的に始まった時期でもあり、イタリアとの間で装甲艦の建艦競争が繰り広げられる。1864年にはシュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争が勃発しドイツ連邦の首長たるオーストリアはプロシアと同盟してデンマークと戦った。オーストリア海軍が初めて地中海を出て北海でデンマーク海軍と戦火を交えた。このオーストリア艦隊の指揮官がテゲトフ提督 Wilhelm von Tegetthoff (1827-1871) だった。この戦争には首尾よく勝利したものの、獲得したシュレスヴィヒ・ホルシュタインの取り扱いをめぐって今度はプロシアとの戦争が始まった。普墺戦争である。
普墺戦争はイタリアとの第三次独立戦争を伴うことになり、ダルマチア沖のリッサ島攻略をめざすイタリア艦隊をテゲトフ率いるオーストリア艦隊が迎撃した。この名高いリッサ沖海戦 Battle of Lissa でイタリア艦隊は敗退し、陸戦でもオーストリアが勝利したにもかかわらず、ケーニヒグレーツでプロシア軍に敗退し戦争全体としては敗北に終わりベネチアを含むベネト地方をイタリアに割譲した。

ここからオーストリア海軍冬の時代が始まる。敗戦の結果、帝国に包含する諸民族を抑えきれなくなったためもっとも有力なハンガリーに大幅な自治を認めた。いわゆる二重帝国の成立である(1867年)。政府予算に対する審議権を得たハンガリー議会の多くは大領主層が占めており、海軍や海運に理解が乏しい彼らは海軍予算に冷淡だった。装甲艦の建造自体はコンスタントに続けられたものの、予算不足で建造はしばしば延引し、就役しても運用費用の不足で埠頭に繋がれたまま、という状態が続いた。海軍総司令官に昇格していたリッサ沖海戦の英雄テゲトフ提督が1871年44歳で急死したのも大きかった。後継のペック提督 Friedrich von Pöck (1825-1884) の威信は比較にならなかった。さらに1882年三国同盟が成立しイタリアとの緊張が緩和され、イタリアを仮想敵とする海軍の優先度はさらに下がった。

リッサ沖海戦でテゲトフ提督の旗艦フェルディナント・マックス SMS Ferdinand Max の艦長を務めたシュテルネック提督 Maximilian Daublebsky von Sterneck (1829-1897) がペックの後任となったのは1883年である。シュテルネックは初めフランス発祥のジューヌ・エコール Jeune École を採用すべきと考えていた。沿岸防御用の多数の水雷艇と、通商破壊用の巡洋艦の組み合わせで比較的安価にイギリスのような航洋海軍に対抗しようとする思想で財政が潤沢ではないオーストリア・ハンガリー海軍にも適していると考えられていた。しかし1890年代に入るころイギリスで大型戦艦が確立し他海軍が追随するとジューヌ・エコールの妥当性は疑わしくなった。ことに同盟国とはいえアドリア海を介して対峙するイタリアが戦艦を含む大型艦を整備し始めると対抗する必要があった。
1892年、シュテルネックは海防戦艦3隻を含む艦隊整備計画を立案して承認を得ることに成功した。以後、平均して毎年一隻程度の戦艦と対応する補助艦艇を継続的に取得した結果、第一次大戦が始まるころにはコンパクトだがバランスの取れた艦隊を整備することができた。ただし費用に加えて根拠地のドックによって大型軍艦のサイズに制約があったことは弱点だった。
この時期オーストリア・ハンガリー海軍は1898年のクレタ島反乱(トルコから分離してギリシャへの編入を求めた)や、中国の義和団事件(1900年)に国際部隊の一員として参戦しているが、伊土戦争やバルカン戦争では中立を維持している。

1914年、サラエボで皇位継承権者であるフェルディナンド大公 Erzherzog Franz Ferdinand (1863-1914) が暗殺された。なおフェルディナンド大公は海軍の熱心な支持者であった。この暗殺を最初のきっかけとしてオーストリア、セルビア、ロシア、ドイツ、フランス、イギリスと動員と宣戦の連鎖が起こり、一月あまりで第一次世界大戦に発展した。ただこの時点ではイタリアはまだ中立を保っている。イタリアがいわゆる「未回収のイタリア」(オーストリア支配下にあるイタリア語話者居住地域)の獲得を見返りに連合国側で参戦するのは翌年のことである。
戦争が始まって最初の戦闘はダルマチア南端、モンテネグロ国境に近い前進基地カッタロ Cattaro で起こった。モンテネグロ軍がカッタロ港を見下ろす山頂を占領し砲撃を加えてきたのだ。守備隊と在泊していた装甲巡洋艦が応戦すると連合軍側はフランス軍を増援として送り込んできた。一方でオーストリア海軍は戦艦を派遣し、砲撃の応酬は3ヶ月ほどに及んだが結局連合軍が撤退した。
連合軍側の英仏、および宣戦後のイタリア艦隊はアドリア海の入り口を封鎖した。オーストリア艦隊はアドリア海に面したイタリア海岸をヒットエンドラン式に砲撃する一方で封鎖の突破を図るも失敗、以後水上艦艇は基地に待機を余儀なくされ、封鎖の突破は潜水艦に任されることになった。総じて連合国艦隊による封鎖は水上艦艇に対しては有効だったが潜水艦の封鎖はできず、オーストリア潜水艦は地中海全域で行動した。
長引く封鎖はオーストリア艦隊の将兵の士気を低下させた。1918年2月、カッタロに停泊していた艦隊で反乱が起きた。反乱は瞬く間に艦隊全体にひろがり、ロシア革命に影響されたとみられる要求を掲げたが、政府に忠実な艦隊が派遣されるとたちまち鎮圧され反乱は3日で終わった。この反乱は海軍首脳部に衝撃を与え、軍事的に価値の低い艦船は予備役として人員の配置を減らす一方で、残る艦船を動員して積極作戦を行なうことになった。
6月、ホルティ提督 Miklós Horthy (1868-1957)(のちのハンガリー王国摂政)が指揮する戦艦を含む艦隊が出撃、封鎖の突破を図ったが意図していた奇襲はかなわず、かえってイタリアの魚雷艇による襲撃を受けて虎の子の弩級戦艦セント・イシュトヴァーン SMS Szent István を失って撤退。オーストリア海軍水上部隊の戦闘行動はこれが最後となった。

10月、帝国が崩壊すると海軍は艦艇や設備の一切を新興のユーゴスラビア王国に譲ろうとしたが連合国はそれを許さず、イタリア海軍の特殊部隊はポーラ軍港に侵入して戦艦フィリブス・ウニーティス SMS Viribus Unitis を撃沈した。艦艇の多くは連合国に引き渡され、ほとんどは解体された。オーストリア帝国の海岸線の一部はイタリアに、多くはユーゴスラビア領となり、帝国あらためオーストリア共和国は内陸国となって現在にいたる。

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