見出し画像

日本陸軍の組織・簡易版

 簡単に日本陸軍の組織を概観してみたいと思います。自分は陸軍についてあまり詳しくはありませんが、語句の意味がわかる程度の辞書に近い内容をめざします。
 海軍については以下の記事から始まる連載を参照ください。総説部分は陸海共通な内容もあるためあらかじめお読みいただいた方が理解しやすいと思います。

陸軍省

 陸軍大臣には現役陸軍大中将を親任する。陸軍大臣は軍の編成整備に関して天皇を輔弼してその責に任じ、そのための行政機関である陸軍省を監督し、すべての陸軍軍人軍属を統率し、軍政事項について陸軍各部を区処する。
 陸軍次官には現役陸軍中少将を任ずる。陸軍次官は陸軍大臣を補佐する。
 大臣官房には副官および秘書官が置かれ庶務や文書管理にあたった。
 陸軍省は局制で各局の下に課が置かれた。軍務局および軍務局軍事課がもっとも重視された。ほかに人事局、整備局、医務局、経理局、法務局などが置かれたが時期により改編があった。

 陸軍省には外局として陸軍航空本部、陸軍兵器行政本部(もと陸軍兵器本部、陸軍技術本部)、軍馬補充本部などが置かれた。

陸軍航空総監部

 昭和13(1938)年に陸軍航空総監部が設立され、陸軍航空総監は天皇に直隷したが、陸軍省外局である陸軍航空本部も残され、本部長を陸軍航空総監が兼務したため独立は限定的だった。

憲兵本部

 陸軍大臣隷下に憲兵本部が置かれ、憲兵司令官は国内の憲兵隊を指揮し、憲兵科出身の陸軍中少将が補されたが歩兵科出身者がつとめることもあった。

参謀本部

 参謀総長には陸軍大中将を親補した。参謀総長は陸軍部隊の作戦(統帥)について天皇を輔弼しその責に任じた。参謀本部の部務を統轄し、軍令事項について陸軍各部を区処した。
 参謀次長は陸軍中少将を補し、参謀総長を補佐した。戦時中、陸軍大臣が参謀総長を兼務したときには参謀次長を二人置き、高級者に陸軍大将をあてた。
 参謀本部には副官部、総務部、第一部ないし第四部を置いた。第一部を俗に作戦部、第一部第一課を俗に作戦課と呼んでもっとも重視した。そのほか各部課で情報、動員計画、運輸通信、築城防備などを分担した。
 その他、参謀本部には地図の作成にあたる陸地測量部、在外公館に派遣された武官、参謀将校や高級指揮官を養成する陸軍大学校が隷下に置かれた。

教育総監部

 教育総監には陸軍大中将を親補し、陸軍部隊の教育について天皇を輔弼しその責に任じた。軍隊において練度の維持向上に不可欠な教育は特に重大ということで独立組織がもうけられ、教育総監は陸軍大臣、参謀総長とあわせて「三長官」と呼ばれて特に重要な政策や人事については三長官会議で合意を得るという慣習があった。
 教育総監部本部長は教育総監を補佐するとともに歩兵科の教育の統一をはかるとされた。歩兵科出身の陸軍中少将が補され、陸軍次官、参謀次長とあわせて「三次長」と呼ばれた。
 教育総監部には各兵監部、つまり騎兵監部、砲兵監部、工兵監部、輜重兵監部が置かれ、各兵科の教育の統一をはかった。騎兵監、砲兵監、工兵監、輜重兵監にはそれぞれの兵科出身の陸軍中少将があてられたが、歩兵科出身者が輜重兵監をつとめることがあった。なお憲兵科の教育については憲兵司令官が、航空兵科の教育については陸軍航空本部長(のち陸軍航空総監)が担当した。
 戦時中には兵科が廃止され兵種とされたため各兵監部は大幅に改編された。

学校

 陸軍大学校は参謀総長の隷下、陸軍士官学校は教育総監が、陸軍騎兵学校などのいわゆる実施学校は各兵監が管轄した。

部隊

 歩兵部隊を例にして部隊の階層を下から挙げていくと、中隊、大隊、聯隊、旅団、師団、軍、方面軍、総軍、となる。

師団

 師団は平時の国内における最大の単位の部隊である。日中戦争前の段階で17個師団が編成されていた。このうち近衛師団と朝鮮駐在の2個師団を除く14個師団で国内各地の防衛にあたった。例えば第一師団は東京に駐屯し東京府、千葉県、埼玉県、神奈川県、山梨県の1府4県を担当した。第七師団は旭川に駐屯し北海道全体を担当した。
 師団は2個歩兵旅団(各2個歩兵聯隊、合計4個歩兵聯隊)、少なくとも1個の騎兵聯隊、少なくとも1個の砲兵聯隊、1個工兵大隊(のち聯隊)、1個輜重兵大隊(のち聯隊)から編成されたが、師団により追加の騎兵聯隊や砲兵聯隊、騎兵旅団司令部や砲兵旅団司令部、要塞砲兵聯隊や鉄道聯隊、飛行聯隊などが編入された。
 師団が管轄する師管区から徴兵された兵は基本的にその師団に編入されるため、師団やその隷下部隊は地方と密接な関係をもついわゆる郷土部隊となった。
 師団長は天皇に直隷し、親補職で陸軍中将があてられる。外地に出征する場合は師管区業務や防衛を担当する留守師団司令部を残していたが、のち師管区司令部が分離した。
 師団司令部には副官部、参謀部、軍医部、経理部、獣医部などが置かれた。

聯隊

 通常、1個師団には4個歩兵聯隊が含まれる。師管区を聯隊区に分割して、聯隊区から徴兵された歩兵は基本的に聯隊区に置かれた歩兵聯隊に編入される。例えば山梨聯隊区から徴兵された歩兵は甲府に駐屯する歩兵第四十九聯隊に編入される。いくつか例外があり、近衛師団には全国から優秀者が選抜されて編成され、近衛兵に選ばれたというのは一種のステータスだった。北海道の第七師団では師管区内で必要数を充足できないため主に東日本から補充した。朝鮮に駐屯する2個師団には、それぞれ東日本と西日本から配属した。沖縄聯隊区の徴兵は九州各地の部隊に配分された。
 師管区司令官は師団長の兼務だが、歩兵聯隊長と聯隊区司令官は別個に置かれた。聯隊長は大中佐があてられた。

 歩兵聯隊は3個歩兵大隊から編成された。聯隊には陸軍全体を通じて固有の番号が与えられるが、聯隊に属する大隊には固有番号は与えられず、例えば歩兵第四十九聯隊第三大隊などと呼ばれた。聯隊に属さない大隊は独立大隊と呼ばれ固有番号を与えられて第九十九独立歩兵大隊などと呼ばれた。大隊長には少佐があてられる例だった。

 1個歩兵大隊は4個歩兵中隊で編成された。聯隊に属する中隊には聯隊を通じて番号が与えられ例えば第四十九歩兵聯隊第十二中隊(第三大隊)などと呼んだ。中隊長には大尉があてられる例だった。

歩兵団、独立旅団

 日中戦争中、4個聯隊で編成された師団を3個歩兵聯隊としその他の部隊もそれにあわせた「三単位師団」が編成されるようになり、歩兵旅団を廃止して歩兵団司令部を置いて3個歩兵聯隊を指揮した。のち独立歩兵団が編成される一方で師団が直接歩兵聯隊を指揮して中間司令部を省略するようになる。

 また独立歩兵大隊を6個から10個程度で編成する独立歩兵旅団、それに砲兵部隊などを加えた独立混成旅団が多数編成されて主に占領地の警備にあてられたが、のちには最前線にも投入された。

飛行戦隊

 もともと航空部隊は、師団に飛行聯隊が分散配属されていたが、日中戦争中に空地分離がおこなわれ、航空機を運用する飛行戦隊と、それを支援する飛行場大隊がもうけられた。飛行戦隊長には中少佐・大尉があてられ、実際に搭乗して勤務した。
 飛行戦隊には固有番号が与えられた。飛行戦隊に属さない飛行中隊は独立飛行中隊と呼ばれやはり固有番号が与えられた。

 飛行戦隊の上級部隊として飛行団、飛行集団・飛行師団、航空軍が置かれた。このほか地上軍の高級部隊に編入されることもあった。
 昭和20(1945)年に本土の航空部隊全体を指揮する航空総軍が設置された。

軍司令部

 平時には朝鮮に駐屯する2個師団を指揮する朝鮮軍司令部、台湾に駐屯する台湾歩兵聯隊などを指揮する台湾軍司令部、中国天津の支那駐屯歩兵聯隊を指揮する支那駐屯軍司令部が置かれていたが、戦時には出征した師団などの部隊を統轄指揮する高級司令部として軍司令部が置かれた。朝鮮軍司令官、台湾軍司令官は親補職であり、支那駐屯軍司令官は昭和11(1936)年に親補職に昇格した。

 昭和12(1937)年、日中戦争が勃発すると現地に複数の軍司令部が設置された。戦局の進展に伴い軍司令部が増えると、さらに上級の方面軍司令部が置かれた。昭和16(1941)年には支那派遣軍が設立された。北支那方面軍を含む複数の方面軍と多数の軍司令部を指揮下に置き、その長を特に総司令官と呼んだ。
 太平洋戦争直前、南方作戦を担任する南方軍が新設されやはり長を総司令官と称した。昭和17(1942)年には関東軍の指揮下に複数の方面軍が編成され、司令部を総司令部、司令官を総司令官と改めた。

 日中戦争以前から本土には東部防衛司令部、中部防衛司令部、西部防衛司令部が置かれていたがのち東部軍司令部、中部軍司令部、西部軍司令部に改編された。
 昭和20(1945)年、本土を軍管区に分割するとともに、同じ範囲の防衛を担当する方面軍司令部をもうけて兼務させた。さらに東日本全体を指揮する第一総軍、広島に司令部を置き西日本を指揮する第二総軍、本土の航空部隊を指揮する航空総軍が新設された。これらは「総軍」とすでに「総」の字が含まれているため単に司令部、司令官(第一総軍司令部、第一総軍司令官など)と呼んだ。総軍司令官には陸軍大将があてられた。

おわりに

 一応これで陸海軍の組織について最低限のところはカバーできたと思います。その上で何を書くか考え中なのです。

 ではもし機会があればありましたらまたお会いしましょう。

(カバー画像は市ヶ谷の陸軍省〜旧陸軍士官学校)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?