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われこそフランス王なり

 かつての君主国で共和国となった国々の多くでは実際の影響力はともかく王政復古主義者というひとびとが存在します。ついさきごろもネパール前国王が復位をめざしているというニュースを目にして「おやおや」と思ったところです。
 フランスにも王政復古主義者というのは存在するのですが、誰を正統な王位継承者とするかで大きく三つの派閥にわかれているのが特徴です。これはかつてのフランスの歴史を反映しています。以前になんとなく調べてみたことをまとめてみました。

はじめに

 フランス国王 Roi de France という地位は10世紀にさかのぼるとされ、以後カペー朝 Capet、ヴァロア朝 Valois を経て16世紀末にはブルボン朝 Bourbon に受け継がれた。王朝の替わり目では百年戦争あるいはユグノー戦争といった争いを呼んだが18世紀にはフランス王の正統性に異論をとなえるものはいなくなっていた。
 フランスの王位継承はゲルマン由来とされるサリカ法 Salic law の原則にしたがう。それは厳密な男系男子の長子優先相続というもので、イギリスのように(男系優先ではあるものの)女系にも王位継承権があるとする考え方とは大きく異なる。実際ブルボン家がカペー家から分岐したのは13世紀のことで王位を継承したのはそれから300年以上経ったころのことなのだが、それでも当時もっとも近親の王位継承権者だったのだ。
 ブルボン王家はフランス革命で王位を奪われた。第一共和制を経てナポレオンがフランス皇帝 Empereur des Français に立ち第一帝政が発足した。ナポレオンが失脚するとブルボン家が王位に返り咲き復古王政となる。復古王政は七月革命で打倒されブルボン家の分家にあたるオルレアン家が「フランス人の王 Roi des Français」に即位し七月王政が始まったが、二月革命で退位に追い込まれ第二共和制となる。大統領に当選したのはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオンで彼はまもなく皇帝を名乗り第二帝政となる。普仏戦争の敗北で退位すると第三共和制となり、以後フランスでは君主制は復活していない。
 結局、ブルボン家本家、オルレアン家、ナポレオンのボナパルト家がそれぞれ少なくとも一度はフランスに君臨しながらその地位を追われたことになる。仮に君主制が復活したとして誰を君主として戴くべきか、その立場の違いによってブルボン本家の末裔を推すレジティミスト legitimist (正統主義者)、オルレアン家の末裔を推すオルレアニスト orleanist 、ボナパルト家の末裔を推すボナパルティスト bonapartist に分かれている。

ボナパルティスト

 ナポレオン(1世) Napoléon I (1769-1821) が1815年に退位しセントヘレナに流されるとボナパルト家の家督は嫡子ナポレオン2世 Napoléon II (1811-1832) に引き継がれた。ナポレオン2世は母マリー・ルイーズ Marie Louise (1791-1847) の実家であるオーストリアで成長しオーストリア軍人となってライヒシュタット公 Herzog von Reichstadt と呼ばれた。しかし1832年肺炎のため21歳で死去しナポレオンの子孫は絶えた。
 ボナパルト家の家督はナポレオンの長兄ジョセフ Joseph Bonaparte (1768-1844) が引き継いだ。ジョセフは第一帝政時代スペイン王をつとめたが半島戦争にやぶれナポレオンが失脚するとアメリカに亡命した。その後政治的な活動は行なわずイタリアのフィレンツェで1844年に死去する。
 ジョセフには子がなく家督はナポレオンの弟ルイ Louis (1778-1846) に引き継がれる。ルイは一時期オランダ王を名乗っていたがフランス本国に併合されてその地位を失なった。その後もオランダに執着したがようやく訪問が許されたのは1840年のことだった。イタリアのリヴォルノで1846年死去。
 ルイの唯一成長した息子シャルル・ルイ Charles Louis (1808-1873) がボナパルト家を継承した。七月革命でオルレアン家がパリを追われ第二共和制が成立するとシャルル・ルイは帰国して大統領に立候補、当選する。国民の圧倒的な人気を背景にクーデターを起こし独裁権を手に入れ、翌1852年に実施された国民投票では97パーセントが帝政復活に賛成した。皇帝に即位したシャルル・ルイはナポレオン3世 Napoléon III を名乗る。
 1870年勃発した普仏戦争で前線指揮をしていたナポレオン3世はセダンでプロシア軍の包囲に陥り降伏した。皇帝が捕虜になるという前代未聞の事態に帝政は崩壊する。皇帝一家はイギリスに亡命し、釈放されたナポレオン3世も合流するが1873年に死去する。

ナポレオン1世の紋章

ナポレオン4世 Napoléon IV

 皇帝の長男ルイ皇太子 Louis-Napoléon (1856-1879) はイギリスでウリッジ陸軍士官学校に入学するが、在学中に父皇帝が急死するという悲運に遭遇する。故国フランスの政情では帝政主義者が大きな議席を獲得することもあったが年月が経つにつれ現状を容認する共和主義者が議会の多数を占めるようになっていた。
 早期の帝政復活を断念したナポレオン4世は軍務に精励し前線勤務を熱望した。イギリス政府はナポレオン4世が危険にさらされることも前線で目立つ活躍をすることもどちらも望まなかったので拒み続けていた。しかし南アフリカで現地ズールー人と衝突が起きていると聞いたナポレオン4世は従軍を強く希望し根負けしたイギリス政府はヨーロッパから遠く離れた南アフリカならばとこれを許した。
 1879年勇躍して南アフリカに赴いたナポレオン4世はある日定例のパトロールに出かけたがそのまま戻ってこなかった。捜索隊がみつけたのは変わり果てたナポレオン4世の亡骸だった。ナポレオン4世は23歳で異国の地に散ったのである。

ナポレオン4世

ナポレオン5世ジョセフ Napoléon V Joseph

 オランダ王ルイの家系は絶えボナパルト家の家督はナポレオンの末弟ウェストファリア王ジェローム Jérôme (1784-1860) の家系に移った。当時はジェロームの三男ジョセフ Joseph (1822-1891) である。帝政時代に皇帝からナポレオン親王 Prince Napoléon の称号を与えられており後継者はこの称号を名乗ることになる。
 しかしナポレオン4世が後継者としてジョセフの長男ヴィクトルを指名していたことから話がややこしくなった。飛び越された形となったジョセフは残りの生涯実の息子と骨肉の争いを繰り広げることになる。
 1886年に旧王家の当主を国外追放にする法律が成立したためスイスに移った。1891年にローマで死去する。

ナポレオン5世ヴィクトル Napoléon V Victor

 ジョセフの長男ヴィクトル Victor (1862-1926) は父とボナパルト家の家督をめぐって争った。自らは5世を名乗ったがジョセフの継承を認める立場では6世という数え方になる。1886年にベルギーに移った。1891年に父が死去するとようやく衆目が一致するボナパルト家の当主となった。
 ドレフュス事件の最中の1899年ヴィクトルは求められるなら帝政主義者のために行動する用意があると表明したが結局期待したような展開には至らなかった。1926年ブリュッセルで死去する。

ナポレオン6世ルイ Napoléon VI Louis

 長男のルイ Louis (1914-1997) がナポレオン親王を受け継いだ。第二次大戦ではフランス軍には入隊できなかったが外人部隊に入隊する。休戦後はレジスタンスに加わり破壊活動に従事した。逮捕されたことや重傷を負ったこともあったが活動を続けた。
 戦後は主にスイスに住み時折りパリに滞在したが1950年に旧王室の追放法が廃止されるまでは大っぴらにはできなかった。実業界で成功し特にアフリカに資産を形成した。1997年に死去。

ナポレオン6世ルイ

ナポレオン7世シャルル Napoléon VII Charles

 ボナパルト家の伝統なのか、ルイは遺言でボナパルト家の家督を長男のシャルル Charles (1950-) ではなく孫のジャン=クリストフに継承させるとした。シャルルはあまりにも「共和主義的で民主主義的でありしかもそれを公言している」としてボナパルト家の当主にふさわしくないとしている。シャルルは飛び越えられる立場になってしまった。
 シャルルは「父はあまりに保守主義すぎて自分の考えが気に入らなかったのでしょう。しかし父にも自分の家督を拒む権利はないのです」と述べている。家督を争う形になったシャルルとジャン=クリストフだが少なくとも公の場では対立している様子は見せていない。

ナポレオン8世ジャン=クリストフ Napoléon VIII Jean-Christophe

 ジャン=クリストフ Jean-Christophe (1986-) はシャルルの長男で上述の通り祖父から直接家督を譲られる形になった。金融ビジネスマンとして働いており父と仲違いしている様子はない。2022年12月に長男ルイが生まれている。

ナポレオン8世ジャン=クリストフ

オルレアニスト

 オルレアン家はルイ13世 Louis XIII (1601-1643) の次男フィリップ Philippe (1640-1701) がオルレアン公 duc d’Orléans に叙爵されたのに始まる。以後世襲して王家の重要な分家として重きをなした。フランス革命当時にオルレアン公であったフィリップ Louis Philippe (1747-1793) は革命に同情的で「平等公 Égalité」と呼ばれたが結局はギロチンにかけられる。
 その子であるルイ・フィリップ Louis Philippe (1773-1850) はまずスイスに逃亡し、さらにヨーロッパ各地を転々とした。一時アメリカに滞在していたが最後はイギリスに落ち着いた。1814年王政が復活するとフランスに帰国する。ブルボン本家からは厚遇されたようだ。
 1830年七月革命でシャルル10世 Charles X (1757-1836) とその一族が国を追われると、やや遠縁ではあるもののブルボン家の男系の分家であるオルレアン家出身のルイ・フィリップが「フランス人の王」として即位する。しかし1848年に二月革命が起きるとルイ・フィリップも王位を追われ、カペー家の血をひくフランス王家は最終的に王位を失なうことになる。ルイ・フィリップは家族とともにイギリスに逃れ1850年に死去する。

フィリップ7世 Philippe VII

 ルイ・フィリップの長男オルレアン公フェルディナン・フィリップ Ferdinand Philippe, duc d’Orléans (1810-1842) は1842年にすでに死去しておりその子パリ伯フィリップ Philippe, comte de Paris (1838-1894) が王太子扱いをされていた。祖父が退位すると一時的にルイ・フィリップ2世 Louis Philippe II を名乗ったが認められずイギリスに渡る。わずか9歳のことだった。アメリカ南北戦争では北軍に加わって戦った。
 第二帝政廃止後の1871年、フランスには王政復活の機運がたかまりパリ伯もフランスに帰国を果たす。正統主義者とオルレアニストのあいだで妥協が成立しシャルル10世の孫シャンボール伯アンリ Henri, comte de Chambord (1830-1883) を共同の王位候補者とすることとなった。しかしシャンボール伯は議会と衝突し王政復活は水泡に帰する。
 シャンボール伯が1883年に死去すると改めて王位への請求を再開しフィリップ7世を名乗り始める。1886年には旧王室の当主と相続人を追放する法律が成立したためイギリスに移り1894年に死去した。

パリ伯フィリップ

フィリップ8世 Philippe VIII

 長男フィリップ Philippe, duc d’Orléans (1869-1926) はサンシール陸軍士官学校に入校したが在学中に追放に遭ったためイギリスのサンドハースト陸軍士官学校に入学しなおし、卒業後はイギリス陸軍に勤務した。21歳のときスイスから密かにパリに入ったが露見して逮捕され国外追放となる。その後インドで勤務しネパールやチベット、アフガニスタンやペルシャ湾を訪れた。
 1894年に父の跡を襲いオルレアン家の当主となる。フィリップは積極的に王政復活運動に取り組んだ。第一次大戦が始まると従軍を願ってフランス軍、ベルギー軍、イタリア軍に働きかけたがいずれも実現しなかった。1926年にイタリア・パレルモで死去。

ジャン3世 Jean III

 フィリップには子がなく従兄弟で義弟のギーズ公ジャン Jean, duc de Guise (1874-1940) が跡を継いだ。ジャンの父はパリ伯フィリップの弟ロベール Robert, duc de Chartres (1840-1910) である。ジャンはアマチュアの歴史家であり考古学者であったがフランスに入国することができなかったためモロッコに住んだ。1940年死去。

アンリ6世 Henri VI

 跡を継いだ長男パリ伯アンリ Henri, comte de Paris (1908-1999) はフランス軍にもイギリス軍にも入隊を拒否されフランス陸軍外人部隊に入隊した。フランス降伏後はアルジェリアでヴィシー政府と現地政府の仲立ちをしようと働いた。
 戦後1950年に旧王室当主を追放する法律が廃止されると帰国し王政復活をめざして運動を展開した。ドゴール Charles de Gaulle (1890-1970) に国会議員への立候補を勧められたこともあったが在野にとどまった。1999年に90歳で死去。

パリ伯アンリ

アンリ7世 Henri VII

 長男アンリ Henri, comte de Paris (1933-2019) は長年クレルモン伯 comte de Clermont として知られていたが父の死をうけてパリ伯の称号を受け継いだ。フランス軍に勤務してドイツに駐留していたこともあった。2004年にはEU議員に立候補したが落選。2019年死去。

ジャン4世 Jean IV

 子のジャン Jean, comte de Paris (1965-) がパリ伯を引き継いだ。長男のガストン Gaston (2009-) が後継予定者となっている。

パリ伯ジャン

レジティミスト

 フランス革命が勃発すると国王ルイ16世 Louis XVI (1754-1793) の弟プロヴァンス伯ルイ Louis Stanislas, comte de Provence (1755-1824) とアルトワ伯シャルル Charles, comte d’Artois (1757-1836) lはいち早く国外に逃亡した。ルイ16世の王権は1792年に停止され、翌年にはギロチンで処刑された。ルイ17世 Louis XVII (1785-1795) は両親から引き離されて劣悪な環境に放置され1795年にわずか10歳で病死する。亡命先でそれを知ったプロヴァンス伯はルイ18世 Louis XVIII としてフランス王を名乗った。
 1814年にナポレオンが失脚するとルイ18世はフランスに帰国する。翌1815年にナポレオンが復帰するとまたもや逃亡するがワーテルローでナポレオンが敗れセントヘレナ島に流刑となるとようやく安心して帰国できた。
 ルイ18世は子がないまま1824年に死去し王位はアルトワ伯が継いでシャルル10世 Charles X を名乗った。1830年に七月革命が勃発し一家はルイ・フィリップが手配した汽船でイギリスに逃れた。その後オーストリアに移り1836年に死去する。

ブルボン王家の紋章

ルイ19世 Louis XIX

 アングレーム公ルイ Louis, duc d’Angoulême (1775-1844) はシャルル10世の長男で、ナポレオン戦争中ロシア軍に従軍を希望したが拒否された。父が即位すると王太子となる。シャルル10世とともに亡命し、父の死後フランス王を称するがやはりオーストリアで1844年死去。

アンリ5世 Henri V

 アングレーム公ルイには子がなかった。アングレーム公の弟ベリー公シャルル Charles Ferdinand, duc de Berry (1778-1820) は強硬な王党派だったが1820年に暗殺された。当時妊娠していたベリー公妃が産んだのがシャンボール伯アンリ Henri, comte de Chambord (1820-1883) だった。ブルボン本家唯一の跡継ぎとして「奇跡の子 enfant du miracle」と呼ばれた。
 伯父にあたるルイの死去をうけてブルボン本家を継承したアンリだったが、1870年に皇帝ナポレオン3世が退位すると王政復活が真剣に議論されるようになった。正統主義者とオルレアニストが共同してアンリを国王に推戴することとし、子のないアンリの後はオルレアン家が王位を継承するという合意がなされた。アンリがこだわったのは革命後に国旗とされた三色旗をやめ、王国時代の百合の花の紋章を国旗とすることだった。王党派を含む議会の大多数は三色旗の廃止に否定的でありこのままでは国王として認められる見込みはない。百合の花を国王の紋章とし国旗は三色旗とするという妥協案をアンリは拒否し、王政復活の可能性は絶たれた。おそらくこれが王政復活にもっとも近づいた瞬間だったろう。
 選挙を重ねるごとに王党派は議席を減らし、共和派が勢力を増していく。王政復古の機運は急激に衰えていった。1883年にアンリは子がないまま死去し、ルイ15世 Louis XV (1710-1774) の子孫は断絶した。

シャンボール伯アンリ

ジャン3世 Jean III

 スペインのハプスブルク家が1700年に断絶するとルイ14世 Louis XIV (1638-1715) は血縁関係を盾に孫のフィリップ(フェリペ Felipe V (1683-1746))を強引にスペイン王に押し込んだ。これはスペイン継承戦争を引き起こすことになるが最終的にはフランスと合同しないという条件の上でフェリペのスペイン王位が認められた。かくしてスペイン・ブルボン家が成立する。
 時代は下って1830年、当時のスペイン王フェルナンド Fernando VII (1784-1833) には男子がなく娘のイザベル Isabel II (1830-1904) に王位を継承させるため勅令を布告したがそれに反発したのがフェルナンドの弟カルロス Carlos (1788-1855) だった。1833年に兄王が死去すると国王カルロス5世 Carlos V を名乗って蜂起、内戦をひきおこした。カルリスタ戦争と呼ばれる。王位をめぐる争いは世代を超えて数十年続いた。
 シャンボール伯アンリが1883年に死去したとき、ブルボン家の男系の子孫でもっとも近親だったのは自称カルロス5世の次男モンテゾン伯フアン Juan, conde de Montizón (1822-1887) だった。フアン自身かつて「フアン3世 Juan III」を名乗ってスペイン王位を要求していた立場だったが今度はフランス王として担がれることになる。彼は「フランス王位に対する要求を放棄することはない」と声明を発したがそれ以上の行動は何も起こさなかった。なお彼はメキシコ皇帝の候補に挙げられたこともあった。1887年死去する。

シャルル11世 Charles XI

 長男のマドリード公カルロス Carlos, duque de Madrid (1848-1909) が跡を継いだ。彼はすでにこれ以前、一時共和国となっていたスペインで国王カルロス7世 Carlos VII を名乗ってイベリア半島の大半を支配していたこともあったが、その後は亡命生活を送り1909年イタリアで死去した。

ジャック1世 Jacques I

 跡を継いだ長男マドリード公ハイメ Jaime, duque de Madrid (1870-1931) はスペイン王としてはハイメ3世 Jaime III、フランス王としてはジャック1世を名乗った。第一次大戦中オーストリアで軟禁状態に置かれていた彼は戦後パリに移った。
 1931年スペインで革命が起き王政が廃止されて共和国が成立した。パリに亡命した国王アルフォンソ13世はマドリード公と会見する。ほぼ百年経ってようやく両家系が顔を合わせたことになるが、皮肉なことに両者とも亡命の身の上だった。これからまもなくハイメは死去する。

マドリード公ハイメ

シャルル12世 Charles XII

 ハイメには子がなく、叔父サンハイメ公アルフォンソ・カルロス Alfonso Carlos, duque de San Jaime (1849-1936) が跡を継ぐ。マドリード公カルロスの弟でフアンの次男になる。彼もまた子がないまま1936年に死去し、カルリスタの系統は断絶した。

アルフォンス1世 Alphonse I

 跡を継いだのはいまや亡命の身である前スペイン王アルフォンソ13世 Alfonso XIII (1885-1941) だった。カルリスタ戦争のきっかけとなったイザベラ女王は従兄弟であるカディス公フランシスコ Francisco de Asis, duque de Cádiz (1822-1902) と結婚した。カディス公はフェルナンド7世とカルロス5世の末の弟であるフランシスコ Francisco de Paula (1794-1865) の息子だった。ふたりのあいだに生まれたのがアルフォンソ12世 Alfonso XII (1857-1885) でその子がアルフォンソ13世である。つまりアルフォンソ13世は女系だけでなく男系でもブルボン家の血をひいておりいまや男系でももっともフランス王位に近い立場にあった。しかし彼は1941年にローマで死去する。

アンリ6世 Henri VI

 アルフォンソの太子は1938年に交通事故で死亡していた。次男のセゴビア公ハイメ Jaime, duque de Segovia (1908-1975) は幼少時の手術の結果聴力を失なっておりスペイン王の継承権を放棄していたがフランス王位については請求権を留保していた。フランス語でハイメに対応するのはジャック Jacques だがフランスの称号としてはアンジュー公アンリ Henri, duc d’Anjou を名乗った。フランコ将軍 Francisco Franco (1892-1975) が後継者に選んだ甥フアン・カルロス Juan Carlos I (1938-) に1969年に改めてスペイン王継承権を譲り1975年に死去した。

セゴビア公ハイメ

アルフォンス2世 Alphonse II

 ハイメの長男カディス公アルフォンソ Alfonso, duque de Cádiz (1936-1989) が跡を継ぎアンジュー公の称号も継承した。直後にフランコが死去し従兄弟のフアン・カルロスがスペイン王に即位したが本来優先権があったはずのアルフォンソは異をとなえなかった。スペインのスキー連盟会長やオリンピック委員会会長を勤めたが、スキー滑走中の事故で1989年に死去した。

ルイ20世 Louis XX

 長男ルイス Luis, duque de Anjou (1974-) がアンジュー公の称号を引き継いだ。現在は彼がブルボン家でもっとも嫡流ということになる。同名の長男ルイス Luis (2010-) が後継予定者となっている。

アンジュー公ルイス

おまけ:カルリスタその後

 カルロス5世の系統が途絶えたあと、アルフォンソ13世の王位をあくまでも認めない(実際にはすでに前国王になっていたが)カルリスタはフェリペ5世の子孫にあたるイタリア・パルマ公家の当主を摂政の名目でかつぎあげることとした。血統の優位を大義名分としていたはずのカルリスタが血縁としてははるかに疎遠なパルマ家を戴くのは自己矛盾なのだが、対立は当初の目的をとっくに見失って党派性に突き動かされていただけなのだろう。

おわりに

 実際のところフランスに近い将来君主制が復活する可能性はほとんどないのですが、それでも伝統と血統を重んじてその復活を信じる人はいかに少なくともなくならないのでしょう。しかし肝心の神輿となるべきかつての王室皇室の末裔たちにはその気があるのでしょうか。
 普仏戦争後の王政復活に向けた動きをみても議会の意向を無視しては王政復活はおぼつきません。150年前の時点ですでにそうだったのですから現代にいたってはますますこうした構図は強固になっているはずです。すでに共和制が充分な「伝統」を築き上げてきています。
 ほとんど可能性に乏しいことを承知の上であえて検討してみるとレジティミストが戴く候補はほとんどスペイン人でありフランスで広く受け入れられる可能性は少ないでしょう。むしろ血統的には遠いはずのオルレアニスト系列の方がずっとフランス人であり続けた分だけ有利だと思います。そうなるとボナパルティストとオルレアニストの一騎打ちとなるわけですが、前者は皇帝ナポレオンの栄光の余光に浴しているのに対し、後者は10世紀以来の由緒正しいカペー家の末裔であるという正統性を有しています。どちらが広く支持を得られるかは予断を許さない、というのは仮定の話でもつまらない結論になってしまいましたがご容赦ください。

 参考文献というわけではありませんが関連書籍をいくつかご紹介しておきます。

 なお画像はウィキペディアから引用しました。

 ではもし次の機会がありましたらまたお会いしましょう。

(カバー写真はブルボン家フランス王の紋章ー部分)

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