聯合艦隊司令長官伝 (30)古賀峯一
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は古賀峯一です。
総説の記事と、前回の記事は以下になります。
フランス駐在海軍武官
古賀峯一は明治18(1885)年9月25日に佐賀県有田で生まれた。実家は小さな酒屋だったが閉店して父は地元の銀行で雑用をしていたという。士族でもない平民出身の古賀だが中学校を経て江田島の海軍兵学校に入校して海軍将校をめざした。ちょうど日露戦争がはじまる直前で、3年の生徒期間のうち2年は戦争中になる。明治39(1906)年11月19日に卒業して海軍少尉候補生を命じられる。第34期生175名中の卒業成績は14位だった。首席は佐古良一である。この年の練習艦隊は厳島、松島、橋立の三景艦で編成され富岡定恭を司令官としてハワイ、オーストラリア、東南アジアを巡った。古賀は松島に乗り組んで遠洋航海に参加した。
帰国すると戦艦香取に配属され、明治40(1907)年12月20日に海軍少尉に任官して巡洋艦音羽に移った。巡洋艦須磨乗組を経て砲術学校と水雷学校の普通科学生を修了し、明治42(1909)年10月11日に海軍中尉に進級した。明治43(1910)年度は巡洋艦宗谷に乗り組む。宗谷はもとロシア巡洋艦ワリャーグで日露戦争で捕獲され日本海軍に編入されていたものだが、もともと日本向けに作られていないので使いづらく練習任務にあてられていた。この年も練習艦隊に編入されて伊地知彦次郎司令官の指揮でオーストラリア、東南アジアを巡る遠洋航海をおこなった。実習にあたる候補生は第37期生で井上成美、草鹿任一、小沢治三郎などが宗谷に乗り組んだ。このときの宗谷艦長は鈴木貫太郎大佐、候補生の指導官は分隊長の高野五十六大尉(のち山本と改姓)だった。古賀にとって高野は海軍兵学校で自分が三号生徒だったときの一号生徒にあたる。
帰国後は砲術学校勤務、戦艦安芸乗組のあと明治44(1911)年12月1日に海軍大尉に進級し、海軍大学校乙種学生と砲術学校高等科学生課程を終えて砲術屋の道を歩み始める。戦艦鹿島分隊長を経て第二艦隊参謀に補せられる。第一次世界大戦がはじまると第二艦隊はドイツが租借していた中国山東省青島の攻略にあてられることになり、加藤定吉司令長官を補佐した。攻略がなった後は第三艦隊に引き継いで内地に凱旋する。司令長官は名和又八郎に代わった。大正4(1915)年度末に艦隊をおりて海軍大学校甲種学生(第15期生)を命じられた。大正6(1917)年12月1日に卒業すると同時に海軍少佐に進級した。海軍省軍務局で2年あまり勤務したあと、フランス駐在を命じられる。イギリスに範をとりアメリカを仮想敵とした日本海軍ではフランスはそれほど重視されておらず主流ではなかった。しかしそれが幸いして古賀は海軍屈指のフランス通として知られることになる。
帰国して大正11(1922)年12月1日に海軍中佐に進級して巡洋艦北上副長に補せられる。その後は海軍大学校教官を2年あまりつとめた。このときの教え子はおおまかに兵学校40期生前後で太平洋戦争中に少将から中将クラスにあたる。艦隊に戻って聯合艦隊参謀に補せられる。上司の聯合艦隊司令長官は岡田啓介だった。岡田長官は訓練でも安全第一をこころがけ「保安艦隊」と陰口を叩かれたが、その矛先は次席参謀である古賀にも向けられた。大正15(1926)年12月1日に海軍大佐に進級するとフランス駐在武官を命じられる。当時ドイツは厳しい軍備制限下にあり、フランス海軍の仮想敵は地中海でのイタリアだった。フランスとイタリアは地中海を舞台に規模は小さいながら特徴のある艦艇で建艦競争を繰り広げる。そのまま日本海軍に取り入れられないとしてもその発想には見るべきものがあった。
軍令部次長
帰国すると海軍省副官(先任副官)に補せられる。上司の海軍大臣ははじめ岡田啓介だったがまもなく財部彪に代わる。その海軍省を直撃したのがロンドン軍縮会議だった。副官の職務は部内の事務を統括するもので直接政策決定に関与できない。その一方で海軍大臣の仕事ぶりを一番近くでつぶさに観察できる立場でもある。古賀はのちに強く条約支持の立場をとることになる。財部大臣が安保清種に代わってまもなく、定期異動で重巡洋艦青葉艦長に補せられた。翌年には戦艦伊勢艦長に移った。砲術屋の古賀にとって戦艦艦長は望んでやまない配置だった。この年戦艦伊勢は聯合艦隊司令長官小林躋造が直率する第一戦隊に所属していた。
昭和7(1932)年12月1日に海軍少将に進級すると海軍軍令部で情報を担当する第三班長を命じられた。当時の海軍軍令部長は伏見宮博恭王、次長は高橋三吉でその権限強化のために海軍省と折衝を続けていた。この中心にあったのは高橋で古賀がこの運動に積極的に関わった形跡はない。軍備計画を担当する第二班長に転じてまもなく海軍軍令部は軍令部に改編され、古賀の職名も軍令部第二部長に変わる。第二部長は2年つとめたがこの間に友鶴事件や第四艦隊事件が起こり日本海軍艦艇の設計が問題視された。軍令部第二部は艦艇兵器の性能要求を担当しており(問題となった艦艇の要求がなされたのは古賀以前の時期だが)軍令部の責任も追求されたが、軍令部は純粋に戦術的観点から要求するもので技術的な実現性には責任を負わないとされた。
ふたたび艦隊に出て第七戦隊司令官に補せられる。古賀が率いたのは重巡洋艦衣笠とかつて艦長をつとめた青葉である。直属の上司になる第二艦隊司令長官は加藤隆義(加藤友三郎の養子)で、その上の聯合艦隊司令長官は高橋三吉だった。二二六事件が起きると第二艦隊は警備のため大阪湾に入った。年度末の昭和11(1936)年12月1日に海軍中将に進級し、練習艦隊司令官に移った。この年の遠洋航海は海防艦八雲、磐手によりインド洋、スエズ運河経由で地中海まで往復した。乗り組む候補生は海兵64期、海機45期生、海経24期生である。
帰国して軍令部次長に補せられる。軍令部総長は伏見宮で、古賀が実質的に軍令部を率いた。すでに日中戦争がはじまっており対中国作戦を指導する一方で対米作戦計画を策定することになる。このころからドイツとの同盟を求める意見が勢いを増してきたが古賀は反対の立場にあり、盟友の山本海軍次官と歩調をあわせて下からの突き上げを押さえ込んだ。政策決定は海軍省の役目だが、この時期に古賀が次長として軍令部を掌握していたことは山本には心強かっただろう。山本と古賀が霞が関にいる間はドイツとの同盟は実現しなかった。ふたりが揃って艦隊に出て東京を離れてから1年後にドイツとの同盟が締結される。
聯合艦隊司令長官
聯合艦隊に出た山本を追うように第二艦隊司令長官に親補され、霞が関でのコンビが艦隊に引き継がれた。このコンビは2年近く続くがそのあいだにドイツとの同盟が成立し、二次にわたる仏印進駐がおこなわれて緊張が一気に高まった。このころ山本は「無理な話だが」と断った上で古賀を軍令部次長に復帰させるという構想を堀悌吉に伝えている。次長は無理としても通例である2年の任期を終えて聯合艦隊を譲る相手として第二艦隊の古賀は十分実現性の高い候補だった。しかし対米開戦を控えて山本は聯合艦隊にとどまり、古賀は支那方面艦隊に転出した。第二艦隊には軍令部次長から近藤信竹が移ってくる。結局山本はこれまでの最長である吉松茂太郎(2年2ヶ月)をはるかに超える3年7ヶ月あまり聯合艦隊司令長官にとどまった。
嶋田繁太郎をついで支那方面艦隊司令長官に親補された古賀は上海で開戦を迎える。上海などに停泊していた連合軍艦艇を接収し、イギリス領香港を占領するなどしたが太平洋戦争からは一歩ひいた位置に置かれた。昭和17(1942)年5月1日に海軍大将に親任され、11月の異動で横須賀鎮守府に移った。このころ古賀と山本は頻繁に手紙のやりとりをしており、嶋田大臣や永野修身軍令部総長の批判を言い合っていた。昭和18(1943)年4月18日に山本が戦死すると後任の聯合艦隊司令長官に選ばれる。横須賀鎮守府司令長官の南方視察という形でひそかにトラックの旗艦武蔵に着任した。嶋田大臣は「山本のあとは経歴から豊田(副武。呉鎮守府長官)か古賀しかいなかった。豊田のほうが先任だが古賀を選んだ」と語っている。
だが古賀にとっては開戦前の時点で長官になっていた方がよほどやりやすかったに違いない。もともと古賀は山本と同じ砲術屋だが、山本と違って航空への理解はないに等しかった。しかし戦争の形態は古賀が戦前に想定していたものとは様変わりして、航空機なしには何事も計画できないものになっていた。古賀も自分が戦争の実状に疎いことを自覚しており、軍令部作戦部長の福留繁を参謀長に求めた。結果として聯合艦隊司令部は福留が牛耳ることになり、長官の古賀は浮いてしまう。
ガダルカナルからはすでに撤退していたがソロモン諸島では引き続き激しい戦闘が続いた。山本にならって古賀も再建された母艦航空隊をラバウルにつぎ込む。背に腹は変えられなかったのは確かだが、結果として貴重な戦力をいたずらに消耗してしまう。古賀の戦略眼は山本よりかなり保守的だったが、決戦を求めるという点では山本と共通していた。古賀は中部太平洋方面でアメリカ艦隊と決戦におよぶ「Z作戦」を構想したが、そのために戦力や物資を集積しようとしても南東方面の戦況が切迫してせっかく育成した戦力や集積した物資の投入を余儀なくされて消耗してしまうという悪循環に陥っていた。
いつまでたっても準備が整わない状況でアメリカ軍は古賀が決戦正面と定めたマーシャル諸島に襲来する。古賀はただ見ているしかなかった。さらにトラックを襲われ、中部南洋のカロリン諸島もすでに安全ではなくなった。古賀は次の決戦正面をパラオ諸島に設定しなおす。しかしパラオもすでにアメリカ機動部隊の攻撃圏に入っていた。空襲を防空壕でやり過ごした聯合艦隊司令部は、福留参謀長に急かされるように2機の二式大艇に分乗してフィリピンのダバオに向かった。
古賀峯一は昭和19(1944)年3月31日、ダバオに向かう途中悪天候に巻き込まれ行方不明となった。満58歳。元帥海軍大将正三位勲一等功一級。
おわりに
古賀峯一は名前は知られていますがあまり評価されていないように思います。イフ戦記でも古賀が主人公になっているものはあるのでしょうか。まあ自分はそれほど詳しいわけではありませんが。おそらく古賀は山本が同期の堀を除いてもっとも気を許していた友人でした。昭和16年に山本が海軍大臣で古賀が聯合艦隊長官だったらと考えてしまいます。詮ないことですが。
次回は豊田副武です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は古賀が艦長をつとめた巡洋艦青葉)
附録(履歴)
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