聯合艦隊司令長官伝 (31)豊田副武
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は豊田副武です。
総説の記事と、前回の記事は以下になります。
第七潜水隊司令
豊田副武は明治18(1885)年5月22日に大分県杵築に生まれた。父はもと杵築藩に仕える漢学者だった。江田島の海軍兵学校に入校して海軍将校をめざした。在校中に日露戦争がはじまるが豊田たちが卒業したときには戦争は終わっていた。豊田の卒業成績は第33期生171名中26位である。首席の豊田貞次郎と血縁関係はない。明治38(1904)年11月28日に海軍少尉候補生を命じられ巡洋艦橋立への乗り組みを命じられる。平時編制に移行した12月20日に練習艦隊がはじめて編成され、松島、厳島とともに橋立も編入された。初代司令官は島村速雄である。翌年2月に横須賀を出航し清国、オーストラリア、東南アジアを巡って8月に帰国する。
装甲巡洋艦日進に配属され明治39(1906)年12月20日に海軍少尉に任官する。駆逐艦朝露での勤務を経て、初級士官が必ず通る砲術学校と水雷学校の普通科学生課程をこなした。この間の明治41(1908)年9月25日に海軍中尉に進級している。対馬の竹敷要港部に属する第十四艇隊で水雷艇に乗り組み、その後海軍大学校乙種学生と砲術学校高等科学生を修了して砲術屋の仲間入りをした。明治44(1911)年12月1日に海軍大尉に進級して装甲巡洋艦鞍馬分隊長に補せられる。鞍馬は大正元(1912)年8月28日に巡洋戦艦に類別替えされた。その後砲術学校教官を2年つとめて海軍大学校甲種学生(第15期生)を命じられる。在校中の大正6(1917)年4月1日に海軍少佐に進級し、優秀な成績で卒業すると軍事参議官吉松茂太郎大将の副官にあてられる。吉松は直前まで第一艦隊司令長官をつとめていたが専任の軍事参議官にはきまった職務はなく副官も忙しくない。実際には兼職である海軍省や教育本部で勤務することが多かっただろう。
吉松が予備役を前提とした待命になると豊田も副官から外れイギリス駐在を命じられる。第一次大戦直後のイギリスで戦訓の収集にあたった。滞在中の大正10(1921)年12月1日に海軍中佐に進級し3年近い滞在を終えて帰国した。巡洋艦球磨副長を短期間つとめて海軍省軍務局で勤務する。大正14(1925)年12月1日に海軍大佐に進級し、大正16/昭和2(1927)年度は艦隊で巡洋艦由良艦長をつとめた。この年由良は第一潜水戦隊の岸井孝一司令官の旗艦だった。翌昭和3(1928)年度は同じ第一潜水戦隊に属する第七潜水隊司令に転じる。第七潜水隊は当時最新鋭の巡洋潜水艦で編成されていた。豊田が艦隊に出ていた2年間の聯合艦隊司令長官は加藤寛治であった。
海軍軍令部第二班長
海軍省で海軍の教育全般の企画調整、士官の一般教育や将校の育成などを担当する教育局第一課長を2年間つとめたあと、砲術屋のひとつの目標である戦艦艦長を日向でつとめた。聯合艦隊司令長官は山本英輔だった。昭和6(1931)年13月1日に海軍少将に進級して海軍軍令部で軍備計画を担当する第二班長を命じられた。当時、海軍軍令部長は谷口尚真だったがまもなく伏見宮博恭王と交代する。伏見宮が次長に起用した高橋三吉は軍令部の権限強化を進めるが、それが実現したのは豊田が軍令部を離れた直後のことだった。艦隊に出た豊田は聯合艦隊参謀長に補せられる。はじめ長官は小林躋造だったがまもなく末次信正にかわり、さらに翌昭和10(1935)年度は高橋三吉に引き継がれる。豊田は1年半のあいだに三人の長官につかえたが末次長官の時代に友鶴事件が起こる。また豊田が艦隊をおりて海軍省教育局長をつとめている間に第四艦隊事件が起きた。両事件では日本海軍艦艇の復元力不足、強度不足が露呈したがその根本原因は軍令部が条約の規制の中でも設計に過大な性能を求めたことだとされた。軍備計画を軍令部で担当したのは豊田が班長をつとめた第二班である。両事件で損傷した艦艇は豊田が班長だった時期以前に計画されたものだったが、豊田時代の計画艦も多くが設計変更を余儀なくされた。結局責任は軍令部の要求をそのまま受け入れた艦政本部にあるとされ軍令部の責任は不問となった。
昭和10(1935)年11月15日に海軍中将に進級してまもなく海軍省軍務局長に横滑りする。この時期に二二六事件なども起こっているがやはり重要なのは日中戦争の勃発だろう。華北沿岸作戦を担当する第四艦隊が編成されると豊田が司令長官に親補されて出征することになる。豊田は陸軍嫌いで知られており普段から「けだもの」「馬糞」と呼んでいたほどで、戦時に陸軍との折衝が必要な軍務局長から体よくはずされたとも言える。後任の軍務局長は井上成美だった。第四艦隊は支那方面艦隊の長谷川清の下で主に山東省沿岸で行動していたが付近から中国軍が駆逐されると出番はすっかり少なくなる。やがて縮小廃止の道をたどることになるが豊田自身は1年で内地に帰還し昭和14(1939)年度の第二艦隊司令長官をつとめることになる。上司にあたる聯合艦隊司令長官は1期上の吉田善吾だった。
昭和14(1939)年の夏の終わりにドイツとの同盟問題が独ソ不可侵条約でご破算になり内閣が交代した。吉田長官が海軍大臣に就任することになり、豊田第二艦隊長官が聯合艦隊に上がるのではないかと言われたが実際には海軍次官だった山本五十六が親補される。豊田が山本と組んだ期間は短く、年度末に海軍艦政本部長に転じる。親補職である艦隊司令長官からは形としては格下げになるが艦政本部は海軍省の外局で本部長の権限は大きい。豊田に不満はなかっただろう。当時の艦政本部は対米戦争を想定して艦艇の新造や改装、兵器の開発などが目白押しで多忙を極めていた。復活してきたドイツとの同盟話をめぐって大臣の吉田がプレッシャーで倒れると及川古志郎が代わって大臣に就任し、あわせて次官も交代した。新しい次官は豊田と同期で同姓の豊田貞次郎となる。豊田貞次郎次官は部内の議論を牽引して強引に同盟容認の結論をまとめる。及川大臣をそっちのけにしたやり方は「豊田大臣、及川次官」のようだと言われた。艦政本部長の豊田副武は蚊帳の外に置かれ「こんな大事なことを一言の相談もなく決めるとはどういうことか。艦政本部は海軍省の番頭ではないぞ」と不満の声を上げたが後の祭りだった。豊田貞次郎はこの「功績」を手土産に翌年大将に進級すると同時に予備役となり近衛内閣に入閣する。
聯合艦隊司令長官
昭和16(1941)年9月18日に海軍大将に親任されると同時に呉鎮守府司令長官に親補された。10月に近衛内閣が総辞職すると海軍大臣の候補として挙げられたが陸軍嫌いで知られた豊田を陸軍がいやがり横須賀の嶋田繁太郎が大臣に決まる。嶋田は開戦に同意して太平洋戦争が始まった。昭和17(1942)年11月の異動で軍事参議官に退いたが山本聯合艦隊司令長官が戦死し古賀峯一があとを継ぐと空いた横須賀鎮守府司令長官に親補される。このとき豊田も候補に挙がっていたが嶋田大臣は古賀を選んだ。豊田自身も古賀が適任だと考えていたという。しかしその古賀が1年もたたないうちに殉職してしまう。ふたたび人選を強いられた嶋田は豊田に白羽の矢を立てる。話を聞いた豊田は断った。自分は開戦以来内地にとどまっていて戦況にも詳しくなく、適任ではないとした。豊田は南雲忠一を考えていたが、しかし嶋田は「とにかく君がやれ」と押しきった。このとき東條内閣はすでに末期に近く嶋田も追い詰められていた。2月には部内の異論をおさえて軍令部総長を兼務するという非常手段もとっていた。人事でごたごたするのは避けたかったのだろう。ひとまず豊田をあてておけば無難である。しかしこの人事から3月もたたないうちに東條内閣は総辞職する。そんな未来を知らない豊田は旗艦に定めた木更津沖の巡洋艦大淀に着任した。
大淀から指揮した「あ号作戦」は惨敗に終わりマリアナ諸島は失陥、豊田が聯合艦隊司令長官に擬していた南雲も戦死した。東條内閣は総辞職し海軍大臣は現役に復帰した米内光政にかわる。母艦航空隊の再建は断念された。これはアメリカ軍を軍事的に打倒することを事実上諦めたことを意味する。聯合艦隊司令部は陸上に移った。フィリピンをめぐって戦われた捷号作戦は「あ号作戦」と同じく一方的な戦いになる。すでに日本の航空部隊は壊滅しておりアメリカ軍の圧倒的な攻撃力は艦船に向かった。マリアナ沖でほぼ壊滅していた聯合艦隊はフィリピンで目に見える形で失われた。フィリピンを奪われた日本は東南アジア資源地帯との連絡を絶ちきられ、太平洋戦争の開戦にいたった目的は失われた。
沖縄戦がはじまって一月、アメリカ軍を撃退する可能性がなくなったころに海軍の作戦指揮体制が変更される。本土決戦が不可避になったいま、これまでの内地の鎮守府、中国方面の支那方面艦隊、それ以外の聯合艦隊という役割分担はすでに意味をもたなかった。内地を含むすべての海軍戦力をひとつの指揮系統の下に置くことになり、海軍総司令部がもうけられて聯合艦隊、支那方面艦隊、鎮守府などを編入した。豊田聯合艦隊司令長官が海軍総司令長官を兼ねることになり、聯合艦隊司令部の職員が海軍総司令部職員を兼ねた。実際には聯合艦隊が全海軍戦力を指揮することになる。
それから一月ほどで豊田海軍総司令長官は軍令部総長に移り、小沢治三郎中将が後任となった。海軍総司令部が編成されたときから米内大臣はこの人事を考えていたものと思われる。この話を聞いたとき豊田は「着任以来敗戦ばかりで、お前は戦が下手だから退けというなら否応はありませんが、一段高い軍令部総長にというのは勘弁して下さい」と断ったが米内は「もう決まったことだから」と押しきった。聯合艦隊司令長官に就任するときも辞めるときも本人は不本意な形で押しきられたことになる。
それから2月あまりのち、ポツダム宣言への対応をめぐって豊田は徹底抗戦を主張して米内に「豊田を見損なった」と言わせることになるが、次長の大西瀧治郎が自決したあとは終戦処理にあたる。10月15日に軍令部は廃止され、海軍省が廃止された昭和20(1945)年11月30日に予備役に編入された。
豊田副武は昭和32(1957)年9月22日死去。満72歳。海軍大将正三位勲一等功二級。
おわりに
豊田副武はマリアナ、フィリピンの敗戦の最高指揮官としてあまり高く評価されていませんが、誰がやっても大差はなかったのではないかと思います。山本、古賀と相次いで長官が斃れたあとにその尻拭いをさせられたのは不運でした。その下で死んでいった将兵にとっては関係のないことですが。
次回は小沢治三郎です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は豊田が艦長をつとめた巡洋艦由良)