見出し画像

海軍軍人伝 大将(1) 川村純義

 これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。初回は川村純義です。

兵学頭

 川村かわむら純義すみよしは天保7(1836)年11月11日に薩摩藩の下級藩士の家に生まれた。通称は与十郎よじゅうろう。妻が西郷さいごう隆盛たかもりの従姉妹にあたる。幕府が長崎に海軍伝習所を設けると薩摩藩から選ばれて参加する。西郷に重用され、戊辰戦争では陸兵の指揮官として出征し、会津などを転戦した。維新政府では兵部ひょうぶ省に出仕し、兵部大丞から士官養成を担当する兵学頭をつとめた。のちに陸軍士官学校や海軍兵学校に発展するそのはじめであった。本省に戻って海軍担当の兵部少輔に就任するがまもなく兵部省が陸軍省と海軍省に分割され、川村は海軍少輔に就いた。当時の海軍省では大臣にあたる海軍卿が空席で、海軍大輔の海舟かいしゅうかつ安房やすふさが実質的な大臣役となり海軍少輔の川村はナンバーツーだった。翌年には勝が正式に海軍卿に就任するが上位の顔ぶれは変わらなかった。しかし藩閥が強い新政府内部で、幕臣出身の勝は浮いていた。自我の強い勝はだんだん嫌気が挿すようになり海軍省内での主導権は川村が握るようになってくる。征韓論で敗れた西郷が下野して鹿児島に帰ったときにも川村は東京にとどまった。
 維新のあと、日本は琉球を編入して沖縄県としたが、その沖縄の船が台湾に漂着して乗組員が襲撃されるという事件がしばしば起きていた。日本としては沖縄統治を正当化するためにも看過できず、清国に使節を派遣して謝罪と対応を求めたが、清国は逆に「事件を起こしたのは清国の統治に服さない野蛮人で清国は責任を負わない」と自ら統治能力を否定して責任を回避した。日本は清国にかわって懲罰を加えるとして台湾出兵が提議される。政府首班の~大久保《おおくぼ》利通としみちは慎重な態度だったが、西郷さいごう従道つぐみち(西郷隆盛の弟)が長崎に待機していた兵力を独断で出港させてしまう。この出兵は一応成功に終わり、清国が賠償金を支払うことに同意して日本は撤兵した。海軍からは軍艦孟春もうしゅんなどが派遣され、参謀役として赤松あかまつ則良のりよしが従軍した。川村は海軍関係蕃地事務局出仕として全般作戦を指導した。これは日本海軍としてはじめての海外出兵だったが、同じ年にあった佐賀の乱とともに海軍の力を改めて示すことになった。これを契機に、これまで文官の海軍少輔だった川村は海軍大輔に昇進すると同時に海軍中将の階級を得る。勝海軍卿は翌年正式に辞任し、川村が名実ともに海軍省のトップに立った。
 佐賀の乱、台湾出兵と相次ぐ実戦で兵力不足を痛感した日本海軍でははじめて計画的な艦船整備に乗り出した。当時もっとも進んでいたイギリスに二種類3隻の装甲艦を発注した。これが扶桑ふそう金剛こんごう比叡ひえいでいずれもエドワード・リードの設計による。ただし就役は西南戦争の後になった。西南戦争の直前、川村は不穏な情勢の鹿児島に直接乗り込んで説得にあたったが西南戦争を防ぐことはできなかった。西南戦争では海軍は総力を上げて兵力の輸送や上陸作戦にあたった。

海軍卿

 西南戦争から凱旋した川村は翌年、海軍卿に就任すると同時に政府閣僚に相当する参議を兼ね、政府首脳の一角を占めることになった。大久保利通が暗殺されたあとに政府を率いた伊藤いとう博文ひろぶみの発案で参議と各省の卿が分離されることになると川村は参議専任となり、海軍卿は榎本えのもと武揚たけあきに引き継がれた。榎本はもと幕臣で長崎海軍伝習所で修学した、かつての川村の同僚だったが幕府海軍の中心的存在となり戊辰戦争では箱館で政府軍に抵抗した。一時投獄されていたが赦免され、ロシアに大使として派遣される際に海軍中将の階級を与えられていた。軍人の地位が高かったロシア宮廷で箔をつけるための名目的なものだったが、この任命が榎本に海軍卿の地位をもたらす。はじめての海軍中将とはいいながらこれまで海軍とほとんど接点がなかった榎本の海軍卿就任は波紋を呼んだ。榎本自身は当初、自分の専門である国際法の知識を生かして海軍の制度整備に専念するつもりだったらしいが実際に海軍省に入ってみると問題が目につき口を挟みはじめる。人事にまで介入するようになると部内の不満はさらに高まり、川村は榎本を辞めさせて海軍卿に復帰した。
 明治初期の海軍は薩摩、佐賀、長州、旧幕府などの寄り合い所帯だったが川村は長年海軍省のトップにあって薩摩閥の支配に貢献した。佐賀、長州、幕府出身者は部隊や技術、教育にあてられて海軍省での政策決定からは遠ざけられた。佐賀出身の中牟田なかむた倉之助くらのすけは海軍大輔から外されて薩摩出身の樺山かばやま資紀すけのりと交代した。樺山は陸軍少将だったが大輔に就任するために海軍に移って来た。伊藤博文や山縣やまがた有朋ありともは、政府全体での藩閥のバランスをとるために薩摩による海軍支配を容認した。明治17(1884)年に華族令が制定されて爵位が定められると川村は伯爵を授けられた。これは伊藤博文や山縣有朋、黒田くろだ清隆きよたかなどと同格になる。

 明治18(1885)年の末、内閣官制が施行されて伊藤博文がはじめての内閣を組織した。これまで閣議に参列する参議と各省の卿は形式上別個のものとされたが、内閣制度では各省の大臣が同時に閣僚として閣議に参列することになり、政策の決定と実行に共同で責任を負うことになった。この新内閣の海軍大臣には薩摩出身ながら陸軍中将の西郷従道が就任することになり、川村は外された。川村の歯に衣着せぬ発言が閣僚間で嫌われたのだという。
 川村は宮中顧問官、のち枢密顧問官に移り、海軍の表舞台から退いた。明治32(1899)年11月1日に63歳に達して後備役に編入され、現役を離れた。
 明治34(1901)年4月29日、皇太子に長男(昭和天皇)が誕生すると川村はその養育係を明治天皇から直々に命じられた。皇室や公家では子供を家臣の家で養育させる慣習がありそれにならったものだが、将来天皇を継ぐ孫を任された川村は家を挙げて皇孫殿下の養育に専心した。しかし川村はまもなく癌を患う。

 川村純義は日露戦争中の明治37(1904)年8月12日に死去した。明治天皇の特別の旨により海軍大将を贈られた。享年69、満67歳。海軍大将従一位勲一等伯爵。

海軍大将 伯爵 川村純義 (1836-1904)

おわりに

 川村純義は明治の半ばには第一線を退き、日清・日露戦争には登場しません。しかしいわゆる「薩摩の海軍」を作り上げたその中心人物である一方で、藩閥を終わらせる役割を担う人材を輩出した海軍兵学校の発展に力を尽くしたのも事実で、単純に良し悪しは量れません。どんな人物についても言えることですが。

 さて次回は誰でしょう。だいぶ時期がとびます。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は台湾出兵に従軍した軍艦孟春)

附録(履歴)

天保 7(1836).11.11 生
明 2(1869).11.23 兵部大丞
明 3(1870).10.27 兵学頭
明 4(1871). 7.15 兵部少輔
明 5(1872). 2.27 海軍少輔
明 7(1874). 4. 4 海軍関係蕃地事務局出仕
明 7(1874). 8. 5 海軍中将 海軍大輔
明10(1877). 2.19 西南役征討参軍
明10(1877).10.10 凱旋
明11(1878). 5.24 参議/海軍卿
明13(1880). 2.28 参議
明14(1881). 4. 7 参議/海軍卿
明17(1884). 7. 7 伯爵
明18(1885).12.22 宮中顧問官
明21(1888). 4.30 枢密顧問官
明32(1899).11. 1 後備役被仰付
明37(1904). 8.12 海軍大将 死去

※明治5年までは旧暦

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?