日本海軍の組織(7)その他の組織
日本海軍の組織について説明しています。最終回は特務機関など、その他の組織について。
前回の記事は以下になります。
特務機関
特務機関というと、満州事変のきっかけとなった柳条湖での満鉄線路爆破を計画実行した奉天特務機関などの謀略組織を思い浮かべるが、法令では陸海軍の組織のうち官衙、軍隊、学校のいずれにも該当しないものを意味した。
元帥府
陸海軍大将のうち特に選抜された者を元帥府に列して天皇の最高の軍事顧問とした。元帥府に列せられた陸海軍大将には元帥の称号を賜い、終身現役として元帥佩刀を下賜された。
この元帥府は名称だけあって物理的な執務室は存在しない。元帥には副官がつけられた。
軍事参議院
天皇の軍事顧問として軍事参議院を置き、その構成員である軍事参議官には元帥、陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長に加えて、特に選任された軍事参議官が含まれた。
軍事参議官には陸海軍大中将を親補するとされたが実際には、現役陸海軍大中将にあてるべき適切な補職がなかった場合に一時的ないわば腰掛けあるいは予備役編入までの閑職としてあてがわれるか、親補職(例えば師団長や艦隊司令長官)から親補職ではない職(例えば参謀次長や海軍艦政本部長)に転じたときに格下げにならないように軍事参議官を兼任させる例が多く、実際の活動はあまり活発ではなかった。
軍事に関する重要事項は天皇が軍事参議院に諮問するとされていたが、陸海軍いずれか一方のみに関連する事項については陸軍あるいは海軍のみの軍事参議官で審議した。軍事参議院の議長は高級古参の参議官がつとめるとされ、古参の元帥が長くつとめた。専任の軍事参議官には副官がつけられた。
侍従武官府
侍従武官は天皇に常時奉仕し、軍事的な行事に扈従しまたは陸海軍と天皇の連絡に任じるとともに、日常の軍事的な御下問に対応する。
侍従武官長は陸海軍将官から親補するとされていたが、実際には陸軍将官のみが補職された。概して任期が長く、ときに10年にもおよぶことがあり、任期をまっとうして退任したときは爵位を授けられる例だった。天皇と日常的に接するため相性が重要で、昭和天皇の摂政時代から長く侍従武官長をつとめた奈良武次や、昭和天皇の信頼が厚く陸軍大臣に推された畑俊六、戦前から戦中にかけて昭和天皇を支えた蓮沼蕃などが良い方の例で、気が利かず短期間で退任した宇佐美興家や、2.26事件で昭和天皇の不興を買った本庄繁などが良くなかった例である。
海軍からは将官級1名、佐官から2名の合計3名があてられ、交代で天皇に陪従し、海軍への行幸に供奉し、海軍への勅使として差遣された。
軍事参議院の幹事長は侍従武官長がつとめ、幹事として侍従武官から陸海軍佐官各1名があてられた。
東宮武官
皇太子には陸海軍から東宮武官長および東宮武官がつけられた。皇太子は10歳で陸海軍少尉に任ずるとされていた。
皇族附武官
海軍武官である皇族には御附海軍武官がつけられた。主に儀式に従い皇族の威儀を整えるのを助けた。
在外大使館・公使館附海軍武官
主要国に置かれた公使館・大使館に海軍武官を置いた。派遣対象国の情報収集や相手国海軍との連絡にあたった。いわゆる Naval attaché である。
軍事にかかわる事項については軍令部の指示をうけ参謀官という扱いだが、日常の活動については大公使と密接に連携し、その指示に従うとされており、実際はともかく少なくとも規定上は外務省の立場を尊重することになっていた。
一部の主要国には海軍武官補佐官を置いた。
商船学校等配属武官
陸軍では大正後期の軍縮後、余剰となった陸軍の現役将校を大学などに配属して軍事教練の指導にあたらせた。海軍では商船学校などの出身者を海軍予備員に採用して戦時に召集するという制度を古くから採用していたが、現役武官をこうした学校に配属して教練を指導させるという制度が始まったのは昭和11(1936)年のことであり、対象となる学校も高等商船学校、水産講習所、水産専門学校、商船学校、海員養成所などに限られた。
軍法会議
艦隊司令部、鎮守府、東京に軍法会議を置いた。それぞれ艦隊司令長官、鎮守府司令長官、海軍大臣に隷した。上級審として高等軍法会議を東京に置き、海軍大臣に隷した。裁判官役の判士は士官と文官の法務官で構成された。法務官は戦時中に武官である法務科士官に転官した。
おわりに
工作庁あたりからちょっと怪しいところが出てきて不勉強を思い知らされました。
単発ネタはありますが次の連載ネタは思いついていないので何か考えなくてはいけません。人物伝とかかなあ。
ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。
(カバー画像はアメリカ大使館附武官の山本五十六(左端)と、前任者の長谷川清(右から2人目))
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