海軍軍人伝 大将(5) 山梨勝之進
これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は山梨勝之進です。
前回の記事は以下になります。
海軍大臣秘書官
山梨勝之進は西南戦争中の明治10(1877)年7月26日に仙台藩士の家に生まれた。仙台藩は戊辰戦争で朝敵となり戦後領地を大幅に減らされた。山梨は海軍で身を立てることを選んで江田島の海軍兵学校に入校した。日清戦争の最中のことである。卒業したのは明治30(1897)年12月18日で第25期生32名中の次席という成績だった。首席は松岡静雄だったが病を得て大佐で予備役となる。松岡はのちに国文学や南洋言語の研究でいくつもの著作を発表したが日中戦争の前に亡くなった。柳田国雄の実弟でもある。卒業とともに山梨は海軍少尉候補生を命じられ、コルベット金剛で遠洋航海に参加した。オーストラリア方面を巡って帰国後は戦艦八島に配属される。明治32(1899)年2月1日に海軍少尉に任官すると最新の戦艦三笠の受領のためにイギリスに派遣される。明治33(1900)年9月25日に海軍中尉に進級して帰国すると今度は一転して旧式の装甲艦扶桑の水雷長に移った。なお山梨はのちに航海長をつとめたこともあるがはっきりした専攻はなく早く参謀勤務に入った。
明治36(1903)年9月26日に海軍大尉に進級するが扶桑水雷長のまま日露戦争を迎える。二戦級の扶桑は主に警備にあてられた。開戦から3ヶ月ほどで済遠の分隊長に移るが済遠は日清戦争で捕獲した巡洋艦で扶桑ほどではないが旧式であることは同じでやはり警戒にあてられた。半年で扶桑に戻って今度は航海長をつとめたがその直後に済遠は旅順沖で機雷のため沈没している。九死に一生を得た山梨だが、翌年の日本海海戦では扶桑はとてもロシア艦隊との決戦に直接参加できるような代物ではなく、監視などの役割を果たしたに過ぎなかった。ようやく第一線の巡洋艦千歳航海長に補せられたときには日露戦争は終結が見えていた。第四艦隊参謀を命じられたのは戦後を想定した人事だった。平時体制に移行すると第四艦隊は廃止されて司令部部員の多くは新編された練習艦隊に横滑りし、山梨も練習艦隊参謀となる。司令官は島村速雄だった。しかし山梨は遠洋航海の前にこれも教育を再開した海軍大学校の甲種学生(第5期生)を命じられ、遠洋航海には参加しなかった。
2年間の課程を終えるといったん舞鶴鎮守府参謀に発令されるがすぐに東京に呼び戻され海軍大臣秘書官をつとめた。当時の海軍大臣は仙台に近い岩手県水沢出身の斎藤実だった。軍事参議官に退いていた前海軍大臣の山本権兵衛の副官も兼ねて、山本と斎藤という日本海軍の中枢に身近に接した。秘書官をつとめていた間の明治41(1908)年9月25日に海軍少佐に進級している。いったん艦隊に出て装甲巡洋艦生駒分隊長を1年あまりつとめたあと、再び秘書官に復帰する。山本の副官を兼ねたのも同じである。通算すると秘書官勤務は4年近くにおよび、大正元(1912)年12月1日には海軍中佐に進級した。大正政変で山本が内閣を組織したのをきっかけに秘書官を退任して建造中の巡洋戦艦比叡の副長予定者として横須賀で勤務することになる。翌年発覚したジーメンス事件で山本と斎藤は失脚するが、山梨は横須賀にあって就役を目前にした比叡の試験に追われていた。比叡の完成を見届けて軍令部参謀に移ったのは第一次世界大戦が始まったことと無関係ではないだろう。ドイツの租借地青島が攻略され、南洋群島が日本などの連合国の手に落ちると山梨は海軍大学校教官として後輩の指導にあたった。この間、戦争中のヨーロッパに視察に赴いている。大正5(1916)年12月1日に海軍大佐に進級すると艦隊に出て戦艦香取艦長を1年つとめた。
海軍次官
5年ぶりに海軍省に戻った山梨は海軍の政策決定の主務者である軍務局第一課長に補せられた。ちょうど第一次世界大戦が休戦となり、世界の軍事情勢は激変していた。海軍大臣の加藤友三郎が推進していた八八艦隊はそれに対するひとつの回答という意味をも持っており、山梨はその実務を担っていた。しかしこの計画はワシントン軍縮会議の結果葬り去られた。山梨は全権をつとめた加藤大臣の随員としてワシントンに同行し、計画を推進していた加藤が自らその計画を放棄する様子を目の当たりにした。大正10(1921)年12月1日に現地で海軍少将に進級して帰国し、横須賀鎮守府参謀長に補せられた。在職中に鎮守府長官は山屋他人、財部彪、野間口兼雄と代わっている。
加藤友三郎は海軍大臣をつとめたまま内閣を組織したがやがて首相に専念して海軍大臣を財部彪に譲った。しかし加藤首相は癌を患いまもなく亡くなる。後継内閣の組閣が進行中の9月1日に関東大震災が発生する。被災地を管轄しているのは海軍では横須賀鎮守府である。参謀長の山梨は対応に忙殺されたに違いない。その直後の9月5日付で海軍省人事局長に発令されており組閣にともなう海軍省の人事異動の一環と考えられるが、横須賀も霞が関の海軍省も震災の真っ只中にあってスムーズに交代できたとは思えない。9月後半には海軍による救護活動も一段落しており山梨も海軍省に着任したはずだ。ワシントン会議後の軍縮の時期であり人事局長はつらい立場に置かれていた。総じて在職期間が長い人事局としてはかなり短い1年あまりで退任して横須賀工廠長に補せられる。大正14(1925)年12月1日には海軍中将に進級し、翌年には海軍工廠の総元締めともいうべき艦政本部長に補職された。艦政本部長は親補職ではないが並の局長よりは格上になる。昭和3(1928)年に岡田啓介海軍大臣のもとで海軍次官となったのは定期的な人事異動によるものだが、山梨の実務能力、バランスのとれた政策立案能力、穏健な考え方は高く評価されていた。海軍大臣が財部彪に代わっても次官に留任したが、ロンドン軍縮会議で対立に巻き込まれる。
財部大臣は全権としてロンドンに渡り、浜口雄幸首相が海軍大臣事務管理となったが海軍省を実質的にあずかったのは東京に残留した山梨次官だった。かつて加藤友三郎に近く接した山梨はその思想の後継者として米英との協調に重きを置き、当然この会議でも妥結するべきと考えていた。しかし加藤寛治らの軍令部はワシントン条約の轍を踏むまいと「安易な妥協」に反対した。全権団から伝えられた妥結案について、加藤ら軍令部は反対したが山梨に押しきられ渋々ながら同意した。この同意をもとに条約は調印されるが、軍令部次長の末次信正は野党の政友会を巻き込んで問題化して阻止を試みる。議会では野党が政府を追求し、新聞もこの事件を大きく報道した。いったんは同意したはずの加藤軍令部長も反対に転じ、軍令部長がもつ上奏権を行使して天皇に直接反対意見を伝えようとする。いったんは説得をうけて断念するがこれが「上奏阻止」としてまたもや問題とされ、ついに加藤は天皇への上奏に踏み切った。政府見解への反対意見を軍令部長が上奏するのは部内の不統一を露呈する大問題だった。留守をあずかる山梨は裏で加藤の糸をひいた末次次長を更迭するのと同時に自ら責任をとって次官を退いた。加藤軍令部長もその翌日に単独上奏の責任をとって辞職した。財部大臣は帰国後、条約の批准を見届けて辞任した。海軍首脳の大臣、次官、部長、次長が短期間で交代するという異常事態だった。
将来の海軍大臣と目されていた山梨は海軍省を去り、現役にはとどまったが海軍大臣の可能性はなくなって事実上失脚した。次官を退任したあとはしばらく無任所に置かれるが年度末の定期異動で佐世保鎮守府司令長官に親補され形の上では栄転となるが東京を離れることになる。呉鎮守府司令長官に転じて昭和7(1932)年4月1日に海軍大将に親任される。軍事参議官として東京に戻るがまもなく待命となり昭和8(1933)年3月11日に予備役に編入されて55歳で現役を離れた。これをいわゆる大角人事に数える意見が多いようだが、ロンドン問題で失脚した山梨が大将を花道に引退するのは既定路線だっただろう。当の山梨本人は「ああいう難しい問題は誰かが犠牲にならなければまとまるものではない」と飄々としていたという。昭和14(1939)年には華族や皇族が学ぶ学習院長を命じられた。皇太子(現在の上皇陛下)が通学するにあたり昭和天皇からの直々の指名だった。終戦後に公職追放で辞任するまでつとめた。
山梨勝之進は昭和42(1967)年12月17日に死去した。享年91、満90歳。海軍大将従二位勲一等功五級。
おわりに
山梨勝之進はロンドン問題でそれなりに知られていますが、大臣になれなかったのでこれまで漏れてしまいました。井上成美が高く評価しており、戦後も長生きして多くの証言を残しています。
ウィキペディアにはロンドン条約批准後の10月に次官を罷免されたと記載されていますが、実際には次官更迭は批准前の6月10日で、翌11日付の官報に辞令が登載されています。間違った記述に辻褄を合わせるかのように、経歴の項目では軍令部出仕に補された日付が省略されています。これは確信犯の匂いがしますが、そこまでして誤まった記述を押し通す意味がわかりません。
さて次回は誰にしましょうか。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は日露戦争中に分隊長をつとめた巡洋艦済遠)
附録(履歴)
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