支那方面艦隊司令長官伝 (8)今村信次郎
歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は今村信次郎です。
総説および前回の記事は以下になります。
三笠乗組
今村信次郎は明治13(1880)年12月4日に米沢藩士の家に生まれた。山下源太郎や黒井悌次郎と同郷になる。米沢中学を経て日清戦争後の海軍兵学校に入校した。明治35(1902)年12月4日に第30期生187名中の首席として卒業し海軍少尉候補生を命じられた。巡洋艦松島に乗り組み、明治36(1903)年2月から8月にかけて清国、オーストラリア、東南アジアを巡った。この年の遠洋航海は日露戦争前の最後のものになったが、のちの練習艦隊のテストケースとして常備艦隊司令官上村彦之丞が部隊を率いた。戦艦敷島に配属され、明治36(1903)年12月28日に海軍少尉に任官した。なおこのときに同期生の筆頭が百武源吾に代わり、今村は次席になっている。少尉任官は日露戦争に向けた戦時体制への移行と同時で、今村は敷島乗組のまま旅順攻撃や黄海海戦に参加する。この年の秋にいったん捕獲船韓崎丸に乗り組んで第32期生の卒業航海に参加した。第32期生は山本五十六や嶋田繁太郎のクラスだが卒業が戦時中になったため遠洋航海は行われず、近海での実習航海ののち部隊に配属された。明治38(1905)年1月12日に海軍中尉に進級して戦艦三笠乗組に移る。日本海海戦の聯合艦隊旗艦三笠の艦橋を描いた絵画には砲術長附の今村中尉も描かれているが、双眼鏡を覗いていて顔は判別できない。
巡洋艦須磨の分隊長のあと、日露戦争の臨時計画でイギリスに発注された戦艦鹿島を受領する回航委員を命じられてイギリスに渡った。分隊長として帰国し、明治40(1907)年9月28日に海軍大尉に進級して海軍砲術学校特修科学生を命じられた。砲術長養成課程である高等科学生ではなく特修科学生であることは注目される。特修科学生の受講資格は佐尉官または准士官および特務士官と幅広く、海軍大学校乙種学生を修了した尉官に限定した高等科学生に比べると門戸が広い。カリキュラムも固定したものではなく学生の実情にある程度あわせた教育がされていたようだ。乙種学生と高等科学生があわせて1年間かかった(のち乙種学生は高等科に統合される)のと比べて教育期間も短かった。大尉になりたての今村には高等科ではなく特修科でなければいけない事情はなかったはずだが、砲術学校自体が開校したばかりでありカリキュラムの実験台にされたのかもしれない。なお百武源吾も同時に砲術学校特修科学生を命じられている。これにより今村は鉄砲屋の末席を占めることになるが、高等科は修了していないという留保がつくことにもなる。
学生を修了しても砲術学校にとどまって教官をつとめた。さたに翌年には第一艦隊参謀に補された。このときの長官ははじめ伊集院五郎、のち上村彦之丞である。巡洋艦笠置分隊長に補されたが短期間で練習艦隊参謀に転じた。練習艦隊参謀は海軍士官憧れの配置だった。任務で海外に行ける上、実戦部隊ではないので勤務は厳しくない。訓練は多いが基礎訓練がほとんどで現場に任せておけば済む。遠洋航海の計画は立てなければいけないが実施は艦側に任せておけばよい、などの理由だろう。この年の練習艦隊司令官は八代六郎で浅間、笠置に乗り組んだ第38期生とともにハワイ、アメリカ西海岸を巡った。帰国後は練習任務にあてられていた戦艦富士分隊長を経て海軍大学校甲種学生(第11期生)を命じられた。在校中の大正元(1912)年12月1日に海軍少佐に進級し、優等で修了すると伊東祐亨元帥の副官に補せられる。大正3(1914)年1月16日に元帥が亡くなると海軍大臣秘書官に転じた。ジーメンス事件で退任する斎藤実大臣、それを継いだ八代六郎大臣に仕えたが翌年には海外駐在を命じられる。
履歴(「日本海軍史」将官履歴)ではこのあとドイツ駐在とあるが第一次大戦中であり得ない。履歴の誤記かとも思われるが戦時中でもあり辞令の現物は確認できなかった。実際に派遣されたのは同盟国であるイギリスである。ジュトランド海戦のあと帰国して軍令部参謀に補せられた。大正6(1917)年4月1日に海軍中佐に進級する。軍令部参謀には2年半ほど在職し、戦争末期にはアメリカに出張している。この頃から秋の演習にあわせて聯合艦隊が臨時編成されるようになったが、その都度軍令部参謀の今村が聯合艦隊参謀を兼ねている。のち第一艦隊参謀に移り、大正9(1920)年12月1日に海軍大佐に進級した。
侍従武官
巡洋艦新高艦長として台湾、さらに南シナ海にまで派遣され、ちょうどヨーロッパ訪問から帰国する途中の皇太子(昭和天皇)が来艦するという名誉に浴した。帰国して横須賀鎮守府附の肩書きで定員外要員として海軍省で勤務したあと、海軍大学校で教官、さらに教頭に補せられる。大正14(1925)年度は艦隊で戦艦日向艦長をつとめた。将官を目の前にして東宮武官兼侍従武官に補せられる。侍従武官は天皇に近侍し、東宮武官は皇太子に近侍するものだが、大正天皇は療養中で皇太子が摂政をつとめていた。大正14(1925)年12月1日に海軍少将に進級する。侍従武官府の長である侍従武官長は陸海軍将官から出すこととされていたが実際には陸軍軍人がつとめる慣例で、海軍少将の今村は海軍侍従武官の先任者としてとりまとめ役をつとめるとともに日常的には海軍の代表として天皇に接する立場にあった。
大正15(1926)年に大正天皇が崩御し元号が昭和に変わると東宮武官は廃止されて肩書きは侍従武官に代わる。しかし仕える相手は同じであり、もともと摂政だったので大きな違いはなかっただろう。ただ代替わりの儀式が多く行われて侍従武官も多忙だったはずだ。侍従武官の任期は概して長く、今村の場合も東宮武官から通算すると5年半におよび、昭和5(1930)年12月1日には海軍中将に進級している。宮仕えから解放されて日向艦長以来の艦隊勤務となる練習艦隊司令官に補せられた。このときの練習艦隊は磐手、浅間で編成されており海兵第59期、海機第40期、海経第19期の候補生を乗せて東南アジア、オーストラリアを巡った。
昭和8(1933)年度は舞鶴要港部司令官をつとめたが、翌年度は上海に司令部を置き中国を担当する第三艦隊司令長官に親補された。1年あまりのちに佐世保鎮守府司令長官に移る。第三艦隊も佐世保鎮守府も前任者は米内光政だった。昭和10(1935)年度末に軍令部出仕となり現役を離れる秒読みに入った。この間に起きた二二六事件は特に影響を与えなかったようだ。やがて待命となり、昭和11(1936)年3月30日に予備役に編入されて55歳で現役を離れた。
まもなく天皇の次弟である秩父宮の宮家別当をつとめることになる。別当は宮家の事務を取り仕切る役職で、華族出身者が多いが軍人出身者も珍しくなかった。侍従武官の経験があり宮中の慣例に通じた今村は適任だった。秩父宮は陸軍軍人で東京の宮邸を留守にすることが多かったが太平洋戦争前から結核による療養生活に入った。戦後、旧軍人は公職追放にあって別当を辞職した。今村も辞職したはずである。
今村信次郎は昭和44(1969)年9月1日死去した。享年90、満88歳。海軍中将従三位勲一等功五級。
おわりに
今村信次郎は侍従武官を長く勤めましたが、侍従武官は重要な割には目立たない職務で歴史書にもあまり登場せずどちらかと言えば裏方扱いです。海軍部内での功績の扱いも微妙で中将にはなれても侍従武官の功績で大将になった例はありません。
次回は百武源吾です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は今村が艦長をつとめた巡洋艦新高)
附録(履歴)
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