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Uボートエース、デ・ラ・ペリエール

 知るひとぞ知る、第一次大戦でのドイツ Uボート艦長として最高の成績を残したデ・ラ・ペリエールについてまとめました。

出自と生い立ち

 ロタール・フォン・アルノー・デ・ラ・ペリエール Lothar von Arnauld de la Periére は1886年3月18日、ドイツ東部のポーゼン(現ポーランド領ポズナニ)に生まれる。名前が示す通り、かつて新教の信仰が禁じられたフランスから移住してきたユグノーの家系の出身である。

ロタール・フォン・アルノー・デ・ラ・ペリエール

 1903年に生徒として海軍に入隊したペリエールは主に水雷関係の配置を中心として勤務した。1911年には軽巡洋艦エムデンで水雷士官を務めている。1914年に第一次大戦が勃発したときには中尉の階級でポール Hugo von Pohl (1855-1916) 海軍参謀本部長の副官を務めていた。まもなく大尉に昇進して海軍飛行船司令部に移った。

地中海

 1915年11月、ペリエールはオーストリア南部、アドリア海に面したカッタロに向かう。カッタロを基地として行動していた潜水艦 U-35 の指揮をとることになったのである。

ドイツ潜水艦 SM U-35

 当時新鋭の U-35 は600トンあまりの中型潜水艦で地中海で運用するには十分な性能だった。ペリエールはこの年末から早速出撃する。アドリア海の出入口であるオトラント海峡の連合軍による封鎖線を突破して中部地中海に出た U-35 は、年明け1月17日にマルタ島南方でイギリス商船サザランドを発見、撃沈した。

 U-35 はその後、カッタロを拠点として2週間から3週間のパトロールを繰り返す。1916年2月のパトロールでは、1800名の兵員を乗せてフランス南部ツーロンからギリシャ北部テサロニキをめざしていたフランス輸送船プロヴァンスをギリシャ南端沖で撃沈し、さらにイギリス海軍の護衛艦(スループ)プリムラを撃沈している。

 1916年3月から4月にかけてはスペイン沿岸をパトロールした。6月の西地中海パトロールでは2週間のあいだに40隻の商船を撃沈している。7月末から8月半ばにかけての3週間ほどのパトロールでは実に54隻、9万1000トンを撃沈した。9月半ばから10月はじめにかけて22隻を撃沈する。その中にはフランス海軍のスループ、リゲル(イギリスから供与)や、仮装巡洋艦ガリアが含まれている。

 ペリエールが商船を発見した時には国際法を厳密に守って対応するのが常だった。彼が商船にむけて魚雷を使うことは滅多になく、たいていは浮上して砲撃を加えるか、捕獲した上で爆破処分した。
 「我々の仕事はお決まりの退屈なものでした。船を見つけたら停船させ、乗り込んで書類を検査する。乗員を救命艇に移し、一番近い港を教えてやる。そして獲物を沈めるのです」

 1916年10月11日、ペリエールはドイツ最高の勲章であるプール・ル・メリット Pour le Mérite を受章する。さらにオーストリアからもレオポルト勲章を与えられた。

ジブラルタルを超えて

 1917年3月、ドイツは無制限潜水艦戦を宣言した。4月にはアメリカが参戦する。潜水艦戦は新しいステージに入った。4月12日から13日の夜、ペリエールの U-35 はジブラルタル海峡を越えて大西洋に出た。イギリス海峡西部のいわゆるウェスタン・アプローチ、すなわちイギリス南部から大西洋に向かう航路で20隻ほどの商船を撃沈、または損害を与えてから再びジブラルタルを越えてカッタロに帰還した。

 この後、半年ほどパトロールの間隔があく。U-35 に何らかの不具合があったか、あるいは本格的なオーバーホールが必要な状態だったのかも知れない。おそらくアドリア海最奥のポーラ軍港で整備が行なわれていたのだろう。

 U-35 が任務に戻ったのは10月のことだった。10月13日の夜にジブラルタルを越え、ウェスタン・アプローチで連合軍商船を狩る。そのなかには日本の汽船生駒丸も含まれていた。

 12月のパトロールではいったんジブラルタルを越えたものの数日でまた地中海に戻った。翌年2月のパトロールではジブラルタルを越えずに地中海にとどまった。ウェスタン・アプローチの警戒が強くなったのか、地中海からわざわざ大西洋まで進出することが非効率だと考えられたのか、あるいはその両面か。

巡洋潜水艦

 1918年5月、ペリエールは新しく就役した巡洋潜水艦 U-139 の艦長に任ぜられて本国に戻った。U-139 はそれまでの U-35 の三倍ほどの大きさの潜水艦だった。慣熟訓練を終えてはじめてのパトロールに出たのは9月のおわりだった。

ドイツ潜水艦 SM U-140 (右、U-139 の同型艦)

 10月はじめ、大西洋アゾレス諸島周辺で数隻の商船を撃沈する。10月14日、マデイラ島からアゾレス諸島に向かっていたポルトガル商船を発見する。漁船を改造したポルトガル海軍の護衛艦が1隻ついていた。150mm砲を搭載する U-139 と、もとが漁船で65mm砲と47mm砲しかもたないポルトガル特設護衛艦では勝負にならない。しかし護衛艦は煙幕を焚いて商船を逃しつつ U-139 に向かってくる。

 二時間におよぶ一方的な交戦で護衛艦は破壊し尽くされて行動不能となり、艦長は戦死した。ペリエールは捕獲隊を派遣したが損傷がひどく爆破処分された。この間に商船は逃げ延びていた。

 これがペリエールの最後の、そして U-139 の最初で最後のパトロールになった。翌月、休戦にともない U-139 はフランス海軍に降伏する。U-139 はアルブロン Halbronn と命名されて1935年まで使われた。

 ペリエールは2隻の潜水艦を相次いで指揮し、194隻45万3716トンを撃沈した。これは第一次、第二次両大戦を通じてもっとも多い。

戦後

 ペリエールは戦後規模が縮小されたワイマール海軍に残留した。1922年に少佐、1928年に中佐に昇進、巡洋艦エムデンの艦長を勤めた。1930年に大佐に昇進してまもなく予備役となる。

 しばらくはトルコで海軍兵学校の教官を勤めていたが、第二次大戦が始まると召集されダンチヒ基地司令官、在オランダ・ベルギー海軍司令官、ブルターニュ海軍司令官、西部フランス海軍司令官などを歴任した。1940年には少将、1941年2月に中将に昇進している。

 2月24日、ペリエールは新設された地中海を担当する南方海軍司令官に就任することになったが、任地にむかってパリ近郊のブールジェ空港を離陸した直後に乗機が墜落して死去する。

おわりに

 第一次大戦と第二次大戦ではいずれも潜水艦による通商破壊戦が繰り広げられましたが、その様相には共通する点と異なる点がともにあります。
 例えば第二次大戦でもっとも大きな戦果を得た Uボート艦長の記録は46隻27万トンなのですが、一見して商船が大型化していることがわかります。また第二次大戦ではほとんどが魚雷による戦果になります。
 両大戦の有り様を比較することでそれぞれの本質の一端に少しでも迫れるのではないかと思います。この小文がその助けに少しでもなっていれば幸いです。

 ウィキペディアの他に以下のサイトを参照しました。

 画像はウィキペディアより引用しました。

 ではもし機会がありましたらまた次にお会いしましょう。

(カバー画像は第一次大戦中に大西洋を行く船団)

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