聯合艦隊司令長官伝 (11)片岡七郎
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は片岡七郎です。
総説の記事と、前回の記事は以下になります。
ドイツ駐在武官
片岡七郎は嘉永6(1853)年12月14日に薩摩藩士の家に生まれた。同郷の山本権兵衛よりわずかに若いだけだが、薩英戦争にも戊辰戦争にも直接従軍することはなかった。維新後に片岡は上京して海軍兵学寮に入寮し海軍将校をめざした。コルベット筑波に実習のため乗り組み、明治9(1876)年9月26日に海軍少尉補を命じられた。当時は黎明期で各期の区別はあいまいだったが、のちにさかのぼって第3期生とされる。山本らとともにドイツ軍艦ヴィネタに乗り組んで実習を兼ねてドイツに向かった。航海中に西南戦争が起こったが、ドイツに到着したときには終結していた。挨拶に訪れたベルリンの日本公使館で、明治10(1877)年6月8日付で海軍少尉に任官されていたことを知らされる。
帰国後は当時日本海軍で最精鋭の装甲艦扶桑に乗り組み、明治11(1878)年12月27日に海軍中尉に進級する。明治14(1881)年12月17日には海軍大尉に進級し、扶桑砲術長、砲艦天城副長、装甲砲艦筑紫副長を経て、海軍兵学校の砲術教授(のち教官と改称)を3年間ほどつとめた。この頃には砲術について教官がつとまるくらいの実務経験を積んでいたのだろう。明治19(1886)年4月7日に海軍少佐に進級した。
明治22(1889)年にはドイツに留学する山階宮菊麿王と華頂宮博恭王(のち伏見宮)に随行することになる。このふたりは伏見宮邦家親王の孫でつまり従兄弟の間柄になる。ともに海軍兵学校に入校して海軍将校をめざしたが退校してドイツ海軍兵学校に留学することになる。まだ10代半ばの少年だったふたりに仕えるのは気苦労が絶えなかっただろう。やがて本職が公使館附武官に変わるが、ドイツ滞在は5年近くに及んだ。明治23(1890)年9月17日には海軍大佐に進級する(当時海軍中佐の階級はなかった)。
帰朝を命じられたのはまさに日清戦争がはじまろうとする時だった。帰国後しばらくは軍令部に勤務したが旅順陥落後の人事異動でコルベット金剛艦長に補せられ、威海衛が陥落すると巡洋艦浪速艦長に移った。前の艦長は東郷平八郎である。浪速はまず台湾海峡の澎湖諸島を攻略し、ついで台湾本島北部に陸軍を上陸させ、陸軍と呼応して南部を攻撃した。
戦後は巡洋艦橋立艦長、砲術練習所長、就役したばかりの戦艦八島艦長をつとめた。柴山矢八長官の下で常備艦隊参謀長を短期間つとめたのちに海軍大臣官房人事課長に転じた。
第三艦隊司令長官
明治32(1899)年6月17日に海軍少将に進級し、呉鎮守府司令官に補せられたがまもなく鎮守府司令官という職は廃止されて所属艦船の維持管理を担当する艦政部長に移る。日露間の緊張が高まる中で、朝鮮海峡を扼する位置にある対馬の竹敷要港部司令官に補せられる。明治36(1903)年9月5日に海軍中将に進級した。
日露戦争をにらんで戦時体制に移行した明治36(1903)年12月28日、新編された第三艦隊の司令長官に親補された。第三艦隊は主に日清戦争以前の旧式艦艇を編入し、朝鮮海峡の警戒を想定した。三景艦の1隻である橋立を旗艦とし、聯合艦隊には含まれなかった。しかし聯合艦隊が旅順のロシア艦隊主力の早期撃破にも封じ込めにも失敗する一方で、ウラジオストクを拠点とするロシア巡洋艦部隊が日本近海に出没した。近海防備は本来第三艦隊の役割だったはずだが、低速で旧式な艦艇を集めた第三艦隊ではロシア巡洋艦部隊には対応できなかった。結局、巡洋艦には巡洋艦ということで第二艦隊が追跡を担当することとなり、その穴埋めとして第三艦隊も旅順封鎖に駆り出されることになる。明治37(1904)年3月4日付で第三艦隊は聯合艦隊に編入された。旅順封鎖は緊張感が長く続く厳しい任務だった。機雷に触れるなどして少なからぬ数の艦艇を失なった。旅順が陥落すると今度はバルチック艦隊に備えて朝鮮海峡の監視に従事する。日本海海戦の前夜、バルチック艦隊を発見したのは商船改造の仮装巡洋艦信濃丸だが、それを引き継いで敵の動向を監視して情報を聯合艦隊司令部に伝え続けたのは第三艦隊に所属する巡洋艦和泉だった。
日露戦争から凱旋して戦時体制が解除されると聯合艦隊は解散し、第一艦隊と第二艦隊が残された。主力部隊と位置付けられた第一艦隊の司令長官には横滑りする形で片岡が親補された。艦隊の中身も大幅に縮小され、主力部隊たる第一艦隊には戦艦は所属していなかった。1年で海軍艦政本部長に移る。第一艦隊長官から親補職ではない艦政本部長へという異動は昭和期には考えられないが、当時はまだそういった慣例はできあがっていなかったのだろう。明治40(1907)年9月21日に男爵を授けられ華族に列せられた。その後、舞鶴鎮守府司令長官に移る。これも後世の感覚では異例である。明治43(1910)年12月1日に海軍大将に親任されてまもなく待命となる。軍事参議官に親補されて5年半つとめて待命となり、大正6(1917)年5月10日に予備役に編入された。満65歳の大正7(1918)年12月14日に後備役に編入される。
片岡七郎は大正9(1920)年1月2日死去。満66歳。海軍大将正二位勲一等功一級男爵。
おわりに
片岡七郎は日露戦争の第三艦隊司令長官で有名ですが、それ以前も含めてずっと地味な仕事を着実にこなしてきた感じがします。その分信頼もされていたのでしょうが、大出世もできなかったのでしょう。
よい機会なのでここで年号に対する私の記述方法について少し説明しておきましょう。「片岡七郎は嘉永6(1853)年12月14日に生まれた」と書きましたが、実は旧暦の嘉永6年12月14日は新暦(グレゴリオ暦)では1854年1月12日になります。しかし嘉永6年はほぼ1853年に相当するとしてこうした記述にしています。肖像写真下の生没年もこれにならっています。これはその時点で現に使用されていた暦に従ったものです。明治6(1873)年初めに新暦に切り替えられるまでの日付については同様のことがあり得ます。
関連して、旧暦から新暦に切り替わった後の誕生日の扱いは、旧暦の表示をそのまま新暦にあてはめます。だから嘉永6年12月14日(1854年1月12日)生まれの片岡七郎の満65歳の誕生日は大正8(1919)年1月12日ではなく大正7(1918)年12月14日なのです。これは年齢の数え方に関する法律に則っています。この法律自体は現在も有効ですが、旧暦の時代に生まれた人はもう誰も生きていないので知ってる人はあまりいないでしょう。
これは完全に余談ですが、私の特技のひとつは明治大正昭和の元号と西暦の変換(両方向)がほぼノータイムでできることです。かつては天正まで覚えたのですが、今となってはうろ覚えになってしまいました。
某ウィキペディアに、海軍兵学寮第2期生である日高壮之丞と同時期の入寮なのに片岡が第3期生になったのは伏見宮博恭王や山階宮菊麿王のドイツ留学に随行していて卒業が遅れたせいだ、とか記述されているのですが、ここには二重の誤りがあります。まずドイツ留学に随行したのはずっとあとの少佐時代のことです。そもそも博恭王は明治8(1875)年生まれ、菊麿王は明治6(1873)年生まれ、当時は2歳とか4歳とかの幼児で海外留学など思いもよらないことでした。実際には留学随行などではなくドイツ軍艦に乗り組んで実習していたのです。そもそも兵学校を出たてのぺーぺーの少尉補に皇族のお守りがつとまるわけがありません。
またドイツ「留学」(実際は乗艦実習)で卒業が遅れたというのも誤りです。この実習には片岡を含む8名が参加していますが、そのひとりが山本権兵衛です。乗り組みから帰国までまったく同じ日程なのにどうして山本は第2期生で片岡は第3期生なのでしょうかねえ。山本も日高も片岡も少尉任官、中尉進級はまったく同日で「遅れ」など見受けられません(中尉進級は帰国後)。山本や日高が第2期生とされて片岡が第3期生とみなされるのは、少尉補を命じられた時期の違いによるのでしょう。山本・日高は明治7(1874)年で、片岡は明治9(1876)年です。いずれにせよドイツ軍艦乗り組み前のことであり、それが影響したなどという事実はありません。
もうひとつ。没日が大正9(1920)年1月11日となっていますが2日が正しいです。大正9年1月7日の官報に死亡記事が掲載されています。いろんな資料に同じ間違いがあるのでウィキペディアだけを責められませんが、おそらく漢数字の「ニ」を「一一」と読み間違えたのでしょう。
次回は有馬新一です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は艦長をつとめた戦艦八島)
附録(履歴)
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