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聯合艦隊司令長官伝 (10)日高壮之丞

 歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は日高壮之丞です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

橋立艦長

 日高ひだか壮之丞そうのじょうは薩摩藩士の宮内家に嘉永元(1848)年3月23日、生まれた。同じ薩摩藩士の日高家の養子となる。薩英戦争や戊辰戦争に従軍したあと、海軍兵学寮に入寮して海軍将校をめざした。同郷の山本やまもと権兵衛ごんべえとは同期生とされているが、日高が4年年長である。後年も海軍兵学校では学歴を問わなかったこともあり同期生でも年齢に幅があったが、この時期はカリキュラムも確立しておらず入校卒業も一斉にはおこなわれていないため、各期の区別があいまいだった。日高らは第2期生とされているがのちにさかのぼってカウントしたものだった。
 生徒としてコルベット筑波つくばに乗り組み、明治7(1874)年11月1日には海軍少尉補を命じられた。春日かすが、さらにはスループ日進にっしんと乗り継いで西南戦争を迎える。日進は九州方面に出動したが機関の不調もあり大きな戦闘には参加しなかった。戦争中の明治10(1877)年6月8日に海軍少尉に任官する。乗艦を扶桑ふそうに変えて明治11(1878)年11月27日に海軍中尉に進級し、乾行けんこう龍驤りゅうじょう浅間あさまと乗り換えて明治14(1881)年12月17日に海軍大尉に進級する。
 海軍軍事部が新設されると編制や教育を担当する第二課で勤務した。以後、参謀本部海軍部、海軍参謀本部、海軍参謀部と名称が変わったが一貫して軍令組織で勤務した。この間、明治18(1885)年6月20日に海軍少佐に進級し、明治20(1887)年から1年間にわたって欧米諸国を視察した。明治22(1889)年8月28日に海軍大佐に進級(当時海軍中佐の階級は廃止されていた)、明治23(1890)年5月にコルベット金剛こんごう艦長に補せられる。この年9月、紀伊半島潮岬付近でトルコ軍艦エルトゥールルが遭難する事故が起きる。生存者の送還と遠洋航海を兼ねて金剛と比叡ひえいがトルコに派遣されることとなり、海軍兵学校第17期生の候補生とともに10月に品川沖を出航してスエズ運河を経由してトルコまで往復し帰国したのは翌年5月のことである。帰国後はコルベット武蔵むさし艦長に移る。さらに装甲艦龍驤艦長、砲術練習所長を経て、巡洋艦橋立はしだて艦長で日清戦争を迎えた。
 黄海海戦では主隊に属して清国艦隊と砲戦を交えたが、32cm主砲の発射はわずかに4発で当然命中弾はなかった。むしろ11門搭載していた12cm速射砲が効果を発揮した。橋立自身は11発の命中弾をうけ犠牲者を出したが、旗艦松島まつしまに比べれば損害は軽微で、伊東いとう祐亨すけゆき聯合艦隊司令長官は旗艦を橋立に移した。橋立は以後の旅順攻略、威海衛攻略では旗艦として艦砲射撃を行なった。台湾海峡の澎湖諸島を攻略するときには旗艦は修理なった松島に復帰していた。その松島艦長に移り、長官も有地ありち品之允しなのじょうに代わった新体制で割譲された台湾島の平定が始まる。樺山かばやま資紀すけのり初代台湾総督を送り届け、近衛師団などの陸軍部隊を上陸させた。

舞鶴鎮守府司令長官

 台湾平定が終わらないうちに日高は海軍兵学校長に移る。明治29(1896)年11月5日に海軍少将に進級する。校長を3年あまりつとめて、鮫島さめじま員規かずのり長官の下で常備艦隊司令官に補せられた。明治33(1900)年5月20日に海軍中将に進級するのと同時に竹敷要港部司令官に補せられる。日清戦争後、対馬に新設された竹敷要港部は、朝鮮半島をロシアと奪い合う日本にとって最前線に位置した。
 明治35(1902)年7月26日には常備艦隊司令長官に親補される。前年末には日露協商の交渉が打ち切られ、明けて年初には対露作戦を意識した雪中行軍訓練で多数の犠牲者を出した。その直後には日英同盟が締結されている。10月には露清協定による満州からの第一次撤兵が行われるが、その半年後の明治36(1903)年4月に行われるはずだった第二次撤兵は事実上不履行となる。6月には日本が直接ロシアとの交渉に乗り出したが妥結にはほど遠く、10月の第三次撤兵はロシアに完全に無視された。
 ロシアとの衝突は俄然現実味を増し、戦争のときに第一線で戦うことになるのは常備艦隊であるのは疑いの余地がなかった。日高自身は当然そうした役割を自覚していたはずだが、同期生の山本海軍大臣は10月19日に舞鶴鎮守府司令長官の東郷とうごう平八郎へいはちろうを常備艦隊司令長官とし、日高を代わって舞鶴長官とする人事を発令した。この人事については山本が日高の独断専行癖を嫌ったとか、天皇には「運がいいから替えました」と説明したとか、柴山しばやま矢八やはちなどの艦隊派(反山本派)だった日高を冷遇したとか、いろいろな理由が伝えられている。冷遇説については、それならばもとから常備艦隊を任せなければよいのでそれほど説得力があるとは思えない。山本と日高の関係についても昔からの仲が悪かったとも、それほど関係は悪くなかったともあって、いずれとも判断し難い。
 いずれにせよ日高は日露戦争を舞鶴軍港で過ごす。国内の拠点としては佐世保が主戦場である黄海にもっとも近く重視されたが、舞鶴もウラジオストクに対する位置にあって重要度はさほど劣らない。日本海海戦では捕獲したロシア艦のうち一部の損傷が激しかった艦が舞鶴に連行された。
 結局日高は戦中から戦後にかけて5年近く舞鶴鎮守府司令長官をつとめ続ける。明治40(1907)年9月21日には男爵の爵位を授けられて華族に列し、明治41(1908)年8月7日には海軍大将に親任される。直後に待命となり、その1年後の明治42(1909)年8月27日に予備役に編入された。大正3(1914)年3月1日、海軍大将の現役定限年齢が68歳から65歳に引き下げられ、すでに65歳に達していた日高はこの日をもって後備役に編入された。70歳の誕生日である大正7(1918)年3月23日に退役となる。

 日高壮之丞は昭和7(1932)年7月24日死去。満84歳。海軍大将正二位勲一等功二級男爵。

海軍大将 男爵 日高壮之丞 (1848-1932)

おわりに

 日高壮之丞は日露戦争直前に東郷に聯合艦隊司令長官の役を奪われたという文脈でのみ知られているのが実情でしょう。その理由についてはいろいろ言われていますが、個人的には山本と日高の間はそんなに言われているほど悪くなかったんではないかと思います。

 次回は片岡七郎です。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は日高が黄海海戦で艦長をつとめた巡洋艦橋立)

附録(履歴)

嘉永元(1848). 3.23 生
明 4(1871). 9.25 海兵寮入寮
明 6(1873). 3. 8 筑波乗組
明 7(1874).11. 1 海軍少尉補
明 9(1876). 6. 8 春日乗組
明 9(1876).12.14 日進乗組
明10(1877). 6. 8 海軍少尉
明11(1878). 5.16 扶桑乗組
明11(1878).11.27 海軍中尉
明12(1879). 4. 9 乾行乗組
明12(1879). 4.14 乾行乗組/海軍兵学校砲術課僚
明13(1880).10. 7 龍驤乗組
明13(1880).10.26 乾行乗組
明14(1881). 7.13 浅間乗組
明14(1881).12.17 海軍大尉
明15(1882). 3.13 浅間乗組
明15(1882).12.11 海軍省主船局出勤
明15(1882).12.14 横須賀在勤
明17(1884). 2. 8 海軍軍事部出勤(第二課)
明17(1884). 2.30 海軍軍事部出勤(第二課)/扶桑臨時乗組
明17(1884).12. 2 海軍軍事部出勤(第二課)/天城臨時乗組
明18(1885). 2. 2 海軍軍事部出勤(第二課)/清輝臨時乗組
明18(1885). 4.28 海軍軍事部出勤(第二課)
明18(1885). 6.20 海軍少佐
明19(1886). 3.22 参謀本部海軍部第二局第一課長兼第二課長
明20(1887). 9.21 欧米各国差遣被仰付
明20(1887).10.27 参謀本部海軍部第二局第一課長
明21(1888). 5.12 海軍参謀本部第二局局員
明21(1888).10.19 帰朝
明22(1889). 3. 9 海軍参謀部第二課長心得
明22(1889). 8.28 海軍大佐
明22(1889). 8.29 海軍参謀部第二課長
明23(1890). 5.13 金剛艦長
明24(1891). 6.17 武蔵艦長
明25(1892). 6. 3 龍驤艦長
明26(1893).12. 2 海軍砲術練習所長
明27(1894). 6.23 橋立艦長
明28(1895). 5.18 松島艦長
明28(1895). 7.25 海軍兵学校長
明29(1896).11. 5 海軍少将
明32(1899). 1.19 常備艦隊司令官
明33(1900). 5.20 海軍中将 竹敷要港部司令官
明35(1902). 7.26 常備艦隊司令長官
明36(1903).10.19 舞鶴鎮守府司令長官
明40(1907). 9.21 男爵
明41(1908). 8. 7 海軍大将
明41(1908). 8.28 待命被仰付
明42(1909). 8.27 予備役被仰付
大 3(1914). 3. 1 後備役被仰付
大 7(1918). 3.23 退役被仰付
昭 7(1932). 7.24 死去

※明治5年までは旧暦

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