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フッド家の提督たち Admirals of Hood

 「フッド提督」と聞くと誰を思い浮かべるでしょうか。自分はとりあえず3人ほど思い付きます。

サミュエル・フッド

 ウェールズに近いイングランド南西部の町バトレーで牧師の息子としてサミュエル・フッド Samuel Hood (1724-1816) は生まれた。2年後には弟アレクサンダー Alexander Hood (1726-1814) も生まれる。1740年、イギリス海軍大佐スミス Thomas Smith (1707-1762) がプリマスに向かっていた途中、乗っていた馬車がバトレーで故障して一泊を余儀なくされた。スミス大佐を一晩もてなしたのが牧師のフッド家だった。
 サミュエルとアレクサンダーの兄弟はスミス大佐が語る海の話に魅了され、海軍に加わることを決心する。両親は反対したが決心はかたく、ふたりは翌1741年に海軍に入隊した。ちょうどオーストリア継承戦争が始まっており、イギリス海軍は各地でフランス艦隊と交戦するなかでふたりは順調に軍歴を重ねて昇進する。

初代フッド子爵サミュエル・フッド
Samuel Hood, 1st Viscount Hood of Whitley

 1756年に七年戦争が始まり、サミュエル・フッドは大佐にまで昇進して艦長をつとめた。英仏海峡ではロドネー George Rodney (1718-1792) の指揮下に入ったこともある。この経験がのちにフッドの経歴に影響を与える。戦後の1767年には北アメリカ戦隊の司令官となり1770年まで北米植民地とカリブ海で過ごす。
 もはや海軍軍人としてのキャリアも終わりかと考え始めていた1775年、アメリカ独立戦争が始まる。1778年にはフランスが本格的に参戦した。当時、西インド諸島のイギリス艦隊を指揮して対アメリカ作戦の前面に立っていたのはロドネーだったが、ロドネーは自分の部下の資質について本国にたびたび不満を述べていた。ロンドンの海軍本部ではロドネーの補佐役としてフッドに白羽の矢を立て、少将に昇進させた上で次席指揮官として西インド諸島に送り込んだ。だがロンドンが期待したほどロドネーとフッドの関係は円滑ではなかったらしい。
 七年戦争が1763年に終結したあと、18世紀としてはめずらしく15年におよぶ平和を享受していたイギリス海軍の戦力は大きく低下し、アメリカ独立戦争をまったく予想していなかったイギリス艦隊は戦争中つねに戦力不足に悩んでいた。フッドが掌握した艦隊も多くは修理が必要で満足に使用できたのは数えられる程度の戦列艦にすぎなかった。
 当時のアメリカ独立戦争で焦点になったのがヴァージニア、ヨークタウン半島に上陸したイギリス軍部隊だった。独立軍の拠点であるヴァージニアを脅かすこの戦線の帰趨が戦争全体を左右する。当時北米方面にあったイギリス海軍部隊は西インド諸島にあるロドネーの艦隊と、王党派の拠点であるニューヨークを基地とするグレーヴス Thomas Graves (1725-1802) の艦隊である。ロドネーは14隻の戦列艦をフッドに預けて派遣した。当時ロドネーは体調を崩していた。全体の指揮はグレーヴスが執ることになった。
 フランス艦隊はド・グラース François de Grasse (1722-1788) が率いてカリブ海のハイチにあったが、ヴァージニアのチェサピーク湾に向かう。ヨークタウン半島は広いチェサピーク湾に張り出しており、湾口を塞げばヨークタウン半島のイギリス軍は孤立する。
 1781年9月5日、フランス艦隊とイギリス艦隊はチェサピーク湾口の沖で遭遇する。北側の風上に位置するイギリス艦隊は、風下のフランス艦隊と並んで東に向かいながら砲撃を交える。風下側のフランス艦隊はイギリス艦隊の帆や索具を狙って行動力を奪うことをもくろんだ。一方のイギリス艦隊は有利とされる風上側にありながら距離を詰めることをせず長距離砲撃に終始した。戦闘が始まったのがすでに夕方であり、日没とともに戦闘は終結した。いずれも損傷は大きかったが致命的とまでは言えなかった。しかしグレーヴスはフランス艦隊を撃滅してチェサピーク湾口の封鎖を突破するのは無理だと判断して撤退を決める。支援を失ったヨークタウン半島のイギリス軍は降伏した。

チェサピークの海戦

 西インド諸島に戻ったフッドは、ロドネーが療養のためイギリス本国に戻っているあいだ指揮をとることになったが、そこに襲いかかったのが勢いに乗るド・グラースが率いるフランス艦隊だった。圧倒的に優勢なフランス艦隊の前にフッドは必死に防戦する。それでもセント・キッツなどを奪われてしまう。フランス艦隊が最終的にめざしていたのはジャマイカの占領だった。
 しかし1782年3月、病が癒えたロドネーが17隻の戦列艦とともに西インドに戻ってくる。両国の戦力はようやく拮抗した。4月12日、ドミニカに近いセインツ島沖で両艦隊は衝突する。フランス艦隊は北から南へ、イギリス艦隊は南から北へと互いにすれ違うような形で接近する。フランス艦隊は東側の風上に位置していた。戦闘が始まってから1時間ほどしたころ、風向きが東風から南寄りに変わった。向かい風を受ける形になったフランス艦隊では隊形の保持が難しくなり戦列が乱れた。イギリス艦隊はフランス艦隊の戦列を突破した。
 その効果は絶大だった。フランス艦隊の戦列を突破するタイミングで敵艦の艦首または艦尾に浴びせた砲火は、敵艦を縦に貫いて大損害を与えた。こちらは舷側の砲すべてを撃ちかけることができたのに対し、相手は艦首や艦尾に装備したわずかな砲でしか反撃できない。風上に出たイギリス艦隊は接近戦を挑む。すでに大打撃をうけていたフランス戦列艦は対抗できずに次々に戦闘力を失っていった。昼過ぎには勝敗は決していた。フランス艦隊旗艦は捕獲され、ド・グラースは捕虜になった。フッドはのちにロドネーの追撃が中途半端だったと批判したが、北米・カリブ海域の制海権は再びイギリスが握る。まもなく講和条約の交渉が始まり、翌年イギリスは正式にアメリカの独立を承認した。
 セインツの海戦でイギリスがとった敵戦列突破が意図的なものだったのか偶然だったのか、研究者のあいだでも議論がある。また戦列突破そのものは過去にも例があった。しかしセインツの海戦での成功は強い印象を与え、以後こうした戦術がとられることが増える。そのもっとも顕著な例がネルソン Horatio Nelson (1758-1805) である。

セインツ海戦

 功績によりフッドは貴族に列せられ男爵を授けられた。中将に昇進し1789年には第一海軍卿に任じられた。フランス革命戦争が勃発すると地中海艦隊司令長官に転じる。王党派が反乱を起こした南フランスの軍港ツーロンを占領したが若きナポレオンの反撃にあって退却に追い込まれる。撤退にあたって港内のフランス艦隊は焼却された。翌1794年フッドはコルシカ島を占領するが10月、本国に召喚される。理由は明らかではないが本国とのあいだで何かの誤解があったらしい。コルシカ島では1796年に反乱が起き、フランス軍も上陸してイギリス軍は撤退した。地中海艦隊司令長官ジャーヴィス(のちのセントヴィンセント伯爵) John Jervis, 1st Earl of St Vincent (1735-1823) のもとで撤退を指揮したのはネルソンだった。

 子爵 Viscount Hood of Whitley を授けられたフッドは大将に昇進したが、1816年ロンドン近郊グリニッジで死去した。

フッド家のひとびと

 サミュエル・フッドとともに海軍に身を投じたアレクサンダーは、七年戦争ではキベロン海戦、アメリカ独立戦争ではウシャント海戦、フランス革命戦争では栄光の6月1日海戦などに参加し、フランス艦隊の主要基地であるブレストの封鎖を指揮した。1800年にその役割を引き継いだのはセントヴィンセント伯爵である。兄と同じく大将にまで昇進し子爵 Viscount Bridport を授けられたが1814年に死去したときに跡継ぎの男子がなく子爵は断絶となり、その前に授かっていた男爵位は兄サミュエルの孫に継承された。

 サミュエル、アレクサンダー兄弟に影響されたのか、ふたりの従兄弟にあたるサミュエルの三人の息子アーサー Arthur Hood (1756-1776)、アレクサンダー Alexander Hood (1758-1796)、サミュエル Samuel Hood, 1st Bt (1762-1814) も海軍に進んだ。アーサーは乗艦が嵐で沈没して殉職した。アレクサンダー(大佐)は戦列艦の艦長としてフランス革命戦争中に戦死した。

 末弟サミュエルはサミュエル・フッドのもとで経験を積み、その引退後は主に地中海でネルソンに従いナイル海戦では戦列艦の指揮をとった。トラファルガー海戦には参加しなかった。ちょうど西インドに派遣されていたのである。その後極東オランダ領東インドに派遣され、中将に昇進し準男爵を授けられた。しかし1814年帰国の途中インドのマドラスで病死した。準男爵位は甥(兄アレクサンダーの子)が相続した。

 初代フッド伯爵サミュエルには一人息子のヘンリー Henry Hood, 2nd Viscount Hood (1753-1836) があり爵位を相続したが海軍には進まなかった。ヘンリーの長男フランシス Francis Hood (1781-1814) は陸軍に入隊し末期のナポレオン軍とフランス国内で戦って戦死した(中佐)。弟サミュエル Samuel Hood, 2nd Baron Bridport (1788-1868) は大叔父アレクサンダーの男爵を引き継いだが、さらに注目されるのはネルソンの姪シャーロット Charlotte Nelson (1787-1873) と結婚したことである。ネルソン家とフッド家という海軍の名門家が結び付きをもったことになる。しかしふたりの息子アレクサンダー Alexander Nelson Hood, 1st Viscount Bridport (1814-1904) は陸軍に勤務して大将にいたり子爵を授けられた。
 ブリッジポート子爵家は以後代々受け継がれて現在も存続している。第2代子爵の嫡子で第3代子爵の父親になるモーリス Maurice Hood (1881-1915) は第一次大戦で海軍予備志願兵 Royal Navy Volunteer Reserve の一員としてガリポリ上陸に参加して戦死した(海軍大尉)。

ブリッジポート子爵家の紋章。
左上と右下はネルソン家の紋章、
右上と左下はフッド家の紋章。

アーサー・フッド

 ナポレオン戦争中に大佐で戦死したアレクサンダーの息子アレクサンダー Alexander Hood, 2nd Bt (1793-1851) は、叔父サミュエルの準男爵を引き継いだ。第2代準男爵アレクサンダーにはふたりの息子があった。長男アレクサンダー Alexander Hood, 3rd Bt (1819-1892) は第3代準男爵を受け継いだが、次男アーサー Arthur Hood (1824-1901) は海軍に進んだ。

初代アヴァロンのフッド男爵アーサー・フッド
Arthur Hood, 1st Baron Hood of Avalon

 アーサー・フッドはクリミア戦争、アロー戦争に従軍し、少将に昇進すると第二海軍卿(人事局長)に就任した。1885年にはイギリス海軍軍人として最高の第一海軍卿を命ぜられ、翌年には大将に昇進した。
 このころ海軍では技術の進歩にともなう戦力の再編に直面していた。長年整備し続けてきた帆走木造の戦列艦は無価値となり、さまざまなタイプの装甲艦が試行錯誤を繰り返しながら建造されていた。こうした試行錯誤が収束の兆しを見せ始めたのがまさにフッドが第一海軍卿をつとめていた時代であった。フッドが率いる海軍本部ではその計画をとりまとめ、1889年に海防法 Naval Defence Act of 1889 として結実した。海防法では欧州列強のいずれか2カ国が連合してイギリスに敵対してきても対抗できることをめざすとした。いわゆる二国標準主義 Two-power Standard である。

 海防法に基づいて全く新しい戦艦が8隻建造されることになる。設計したのは当時の海軍建造本部長ホワイト William White (1845-1913) だった。ところがこの設計に異議を唱える者があった。誰あろう、第一海軍卿のフッドである。
 ホワイトの設計は艦の全長と全幅にわたって高い乾舷をもうけてその上に露砲塔を置くというものだった。それに対してフッドは乾舷を低くし露砲塔ではなく砲塔を置くことを主張した。

露砲塔。重心を下げるため砲が剥き出しになっている。

 ホワイトは、予定された8隻のうち1隻をフッドが主張する砲塔艦として建造することとした。建造されたその砲塔艦はフッド HMS Hood と名付けられた。

砲塔艦フッド HMS Hood

 表面上この砲塔艦は18世紀イギリス海軍の英雄である初代フッド子爵サミュエル・フッドにちなんで命名されたということになっている。しかしその建造を強硬に主張したのがアーサー・フッドであることを考えると、暗黙的にそうした意味が込められていたのではないかと考えざるを得ない。結果としてアーサー・フッドが砲塔艦の建造を強行したことは大きな意味があった。逆説的ではあるが、ホワイトの設計とフッドが好んだ砲塔艦の優劣が、実際に運用してみてはっきりしたのである。ほぼ同大同兵装でありながら、ホワイトが設計した戦艦が何の問題もなく航行しているのに対し、同じ条件で砲塔艦フッドでは波が甲板に打ち込んで主砲が使用不能に陥った。

 アーサー・フッド自身は実際にこれらの戦艦や砲塔艦が就役する前に海軍を退いた。1892年には男爵 Baron Hood of Avalon を授けられたが、ちょうどその頃就役しはじめた戦艦や砲塔艦の評判を聞いてどう思っただろうか。アーサー・フッドは1901年に死去した。男子がなく男爵は断絶になった。

ホレース・フッド

 初代フッド子爵の嫡孫フランシスは祖父に先立ってフランスで戦死した。その遺児サミュエル Samuel Hood, 3rd Viscount Hood (1808-1846) が第3代子爵を継承した。第4代子爵フランシス Francis Hood, 4th Viscount Hood (1838-1907) にはふたりの成人した息子がいた。次男ホレース Horace Hood (1870-1916) は海軍に進む。

ホレース・フッド
Sir Horace Hood

 ダートマスの海軍兵学校を首席で卒業したフッドはその後スーダンやソマリアでの実戦を経験した。ソマリアでは敵と格闘戦になり自ら白兵戦を演じてのちに勲章を得ている。
 1907年には大使館付き海軍武官としてアメリカの首都ワシントンで勤務し、その後は戦艦の艦長やオズボーン海軍兵学校長を歴任して将官にいたり、第一次大戦が勃発したときにはチャーチル海軍大臣 Winston Churchill (1874-1965) の首席副官だった。

 海軍士官としては陸戦の経験が豊富だったフッドは、大戦初期にドイツ軍が進撃するベルギー沿岸の作戦を任された。アントワープを包囲するドイツ軍や、イーゼル川戦線のドイツ軍に砲撃を加えて抵抗するベルギー軍を支援した。西部戦線が膠着して塹壕線が北海にまでいたるとフッドは呼び戻されてドーバー地区司令官に任じられ、海峡の警備にあたった。
 1915年5月、フッドは第3巡洋戦艦戦隊 3rd Battlecruiser Squadron 3BCS の司令官に転任し、スコットランド中部、北海に面するファース・オブ・フォースに停泊する巡洋戦艦インビンシブル HMS Invincible に将旗を掲げた。当時ジェリコー司令長官 John Jellicoe (1859-1935) 率いる大艦隊 Grand Fleet はスコットランド北端スカパフロウを拠点としていたが、ビーティー David Beatty (1871-1936)  率いる巡洋戦艦隊 Battle Cruiser Fleet はファース・オブ・フォースに移っていた。ドイツ巡洋戦艦のヒットエンドラン攻撃に対応するにはスカパフロウは遠すぎた。

 ちょうど一年後の1916年5月、フッドの第3巡洋戦艦戦隊(インビンシブル、インフレクシブル HMS Inflexible、インドミタブル HMS Indomitable)は演習のため一時的にビーティーの指揮を離れてスカパフロウに移りジェリコーの指揮下に入っていた。そこにドイツ艦隊が出撃したという知らせが飛び込んでくる。ジェリコーは、ビーティーを含む全艦隊に出撃を命じるとともに、フッドにはビーティーとの合流を指示した。

 北海に面したヤーデ湾を出撃したドイツ艦隊はまっすぐ北上してデンマークとノルウェーを隔てるスカゲラク海峡西口に向かった。先陣を切るのは例の如く巡洋戦艦部隊だった。ビーティーとジェリコーはほぼ真東に進む。ジェリコーとともにスカパフロウを出たフッドはジェリコーに先行する。
 まず会敵したのはビーティーとドイツ巡洋戦艦だった。5月31日の夕方4時頃に始まった砲戦でビーティーは麾下の6隻の巡洋戦艦のうちクイーンメリー HMS Queen Mary とインデファティガブル HMS Indefatigable を失うという痛手を負ってしまう。ちょうどこのころフッドは合流のためにビーティーの位置と針路を問い合わせたが返信はなかった。
 ドイツ巡洋戦艦の背後に主力部隊が接近してくるのを認めたビーティーは反転して北に向かい、ドイツ艦隊を大艦隊主力に誘き寄せようとする。合流して一本の単縦陣を構成したドイツ艦隊はビーティーを追って北上する。ようやく1時間後、北西から大艦隊主力が接近する。ジェリコーは艦隊を東方向に変針させてドイツ艦隊に対して丁字を描こうとした。それを嫌ったドイツ艦隊も東寄りに針路を変える。
 フッドは変針しているジェリコーの前面を横切り、4隻にまで減っていたビーティーと合流して先頭に立った。フッドが座乗しているインビンシブルはいまや大艦隊の前面に立つ巡洋戦艦部隊のさらに先頭に位置していた。時刻は夕方6時ごろだったが、5月末の北緯57度はまだじゅうぶん明るかった。

ジュトランド海戦

 ドイツ巡洋戦艦の砲弾がインビンシブルの中部砲塔を直撃したのは6時30分ごろのことだった。砲弾が巡洋戦艦の薄い甲板装甲を貫いて弾薬庫を誘爆させたといわれるが、破壊された砲塔で起きた火災が弾薬庫にまで伝わって誘爆を引き起こしたともいわれる。いずれにせよインビンシブルは爆発を起こしふたつに分断されて沈没した。千人あまりの乗員のうち救出されたのは6名だけだった。そのなかにフッドは含まれていなかった。

爆発するインビンシブル

 フッドの兄第5代子爵グロヴナー Grosvenor Hood, 5th Viscount Hood (1869-1933) には男子がなく、フッドの息子たちが爵位を継いだ(第6代サミュエル Samuel Hood, 6th Viscount Hood (1910-1981)、第7代アレクサンダー Alexander Hood, 7th Viscount Hood (1914-1999))。現在はフッドの孫にあたるヘンリー Henry Hood, 8th Viscount Hood (1957-) が子爵を継承している。

 1918年、クライドバンクのジョンブラウン造船所で当時世界最大の巡洋戦艦が進水し、フッド HMS Hood と命名された。これも初代フッド子爵サミュエル・フッドにちなむものとされているが、わずか2年前に北海に沈んだホレース・フッドを思い浮かべた者もいたことだろう。4隻の建造が計画されていたが同型艦はキャンセルされ、ワシントン海軍軍縮条約で主力艦の新規建造も禁止されたため、フッドは長いあいだ世界最大の主力艦の地位を保っていたが、1941年ドイツ戦艦ビスマルクと交戦して爆沈した。その後「フッド」の名をもつイギリス軍艦はあらわれていない。

おわりに

 ネタに困って七転八倒している時にふとしたきっかけでアタマに浮かんできました。日本海軍でも某T家とか某F家など代々海軍に奉職したという家系はたまに見かけるのですが、歴史の長いイギリス海軍では一族の中から何人も将官や大将が出ているということが結構あります。フッド家はその典型例でもありますが、その本人ばかりかその艦名を得た軍艦もイギリス海軍の歴史上で重要な役割を果たしてきました。軍艦としては知っているけどその由来となった提督についてはよく知らないという人も多いのではないでしょうか。
 はじめに考えていたよりずっと長くなってしまいましたがこれでもかなり端折ったつもりです。最後まで読んでいただけたら幸いです。

 参考文献になります。

 またウィキペディアの他に以下のサイトを参照しています。

 画像はウィキペディアから引用しました。

 ではもし機会がありましたらまた次回にお会いしましょう。

(カバー画像は巡洋戦艦フッド)

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