支那方面艦隊司令長官伝 (4)小栗孝三郎
歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は小栗孝三郎です。
総説および前回の記事は以下になります。
比叡分隊長
小栗孝三郎は慶応4(1868)年8月4日、加賀金沢藩の支藩である大聖寺藩士の家に生まれた。小栗が生まれて1ヶ月ほどで元号が明治と変わる。海軍将校を目指して築地にあった海軍兵学校に入校するが、一号生徒のときに学校が広島県江田島に移転する。設備の建設がまにあわず港内に停泊した船舶に寝泊まりした。小栗ら第15期生はそれまでの各期の倍近い生徒数になった。80名の卒業生のうち小栗は5位という成績だった。首席は財部彪である。明治22(1889)年4月20日に海軍少尉候補生を命じられ、遠洋航海のためコルベット金剛に乗り組んだ。当時の金剛艦長は鮫島員規大佐だった。8月に姉妹艦比叡とともに横須賀を出航し、ハワイ方面を巡って翌年2月に帰国した。その後は巡洋艦高千穂に配属され、明治23(1890)年7月9日に海軍少尉に任官した。
コルベット武蔵分隊士、水雷術練習艦迅鯨乗組を経て海軍大学校丙号学生を命じられる。当時の丙号学生は数学や物理学、語学などを教授する1年間の課程である。課程を修了すると巡洋艦松島分隊士、佐世保海兵団分隊長を経験して比叡分隊長で日清戦争を迎える。比叡は聯合艦隊の本隊に編入され、黄海海戦では六隻縦陣形の五番艦だった。高速艦は第一遊撃隊に集められ、本隊には比較的低速な艦が残った。清国艦隊と遭遇して黄海海戦が始まると比叡は低速な本隊にも追随できず、四番艦橋立とのあいだに1300メートルの間隔が空いてしまった。これを見た清国艦隊の定遠と来遠は比叡を目標に肉薄攻撃をしかける。あわや衝突されそうになった比叡は辛うじて避けたものの定遠と来遠に挟まれて両舷で同時に敵と交戦することを余儀なくされた。さらに超勇と揚威も攻撃に加わり一対四の戦いとなる。軍艦旗を掲げたメインマストは打ち倒され、命中弾で30名あまりの死傷者を出す。第一遊撃隊が救援に駆けつけてきたため比叡は難を逃れることができた。しかし海戦のあと比叡は本隊から外され西海艦隊に編入されることになる。旅順攻略がなったあとの明治27(1894)年12月7日に海軍大尉に進級した(当時海軍中尉の階級はなかった)。比叡が編入された西海艦隊は聯合艦隊主力とともに威海衛攻略作戦をおこなったが、占領後主力が台湾に向かうと西海艦隊は威海衛で留守を守った。
台湾平定中に西海艦隊参謀に転じるがまもなく西海艦隊それ自体が廃止されて平時体制に戻った。通報艦磐城航海長、コルベット天龍航海長、坪井航三司令長官の下で常備艦隊参謀をつとめ、海軍省軍務局で1年間勤務したのちに海軍大学校甲種学生(第2期生)を命じられる。在校中の明治32(1899)年9月29日に海軍少佐に進級するが、2年の課程が終了しないうちに北清事変、いわゆる義和団の変が起こり教育を中断して東郷平八郎司令長官の常備艦隊参謀として出征した。帰還して海軍大学校に復帰し、当初予定からやや遅れて修了すると海軍省副官兼海軍大臣秘書官に補せられた。当時の海軍大臣は山本権兵衛である。
第一潜水艇隊司令
日露戦争直前に、二期上の野間口兼雄と交代でイギリス駐在を命じられる。滞英中の明治36(1903)年9月26日に海軍中佐に進級した。開戦後に帰国して軍令部参謀に補せられるが、帰朝報告の中で日本も潜水艦を採用すべきと主張していた。当時、欧米で潜水艦先進国としてはフランス、イタリア、アメリカ、ロシアなどが挙げられ、大海軍国であるイギリスやドイツは潜水艦に関してはむしろ遅れていた。敵国であるロシアに対抗するためにも潜水艦の採用は急務だとしたこの小栗の報告書ははじめ重く受け止められなかったが、5月に戦艦八島、初瀬をはじめ多数の喪失艦を出して戦力増強が緊急に必要になると真剣に検討されはじめる。帰国したばかりの小栗はふたたびイギリスに派遣され導入候補を求めた。結局、アメリカのホランド社製小型潜水艇を半完成状態で5隻セット購入することとした。再度帰国した小栗は横須賀工廠で組み立てを監督し、完成した艇ではじめて編成された第一潜水艇隊の初代司令に補せられた。潜水艇は戦争には間に合わなかったが、明治38(1905)年10月に横浜沖で挙行された凱旋観艦式では明治天皇に浮上潜航を披露した。
戦後まもなく三度目となる渡英をしたのは、日露戦争中の潜水艦導入がまず速度を重視したのに対し、日本海軍の将来の潜水艦像を見据えた手本となるべき潜水艦を列強海軍に求めたのであろう。日本海軍の潜水艦は最初に導入したアメリカ式の方向には発展せず、イギリス、イタリア、フランス式を取捨選択した上に第一次大戦後はドイツ式も参考にして日本独自の形に作り上げられた。帰国した小栗は潜水艇母艦として運用された韓崎丸の艦長に補せられたが待命、のち一時休職となる。小栗はこのあともしばしば休職する。明治40(1907)年9月28日に海軍大佐に進級し、休職をはさんで通報艦鈴谷艦長、巡洋艦音羽艦長、水路部勤務を経て海軍省先任副官に補せられた。水路部勤務は閑職だが体調を考慮したものだろう。副官のあと体調は回復したようで戦艦香取艦長を1年間つとめて海軍艦政本部で兵器を担当する第一部長に補された。
大正2(1913)年5月24日に海軍少将に進級したがジーメンス事件で交代する。これは左遷されたわけではなく人事刷新の一貫であったらしい。まもなく第一次世界大戦が勃発するともっとも重要な同盟国であるイギリス駐在武官を命じられた。四度目のイギリス滞在になる。2年弱で帰国すると海軍省の筆頭局である軍務局長に補されるが、ドイツが無制限潜水艦戦を宣言すると日本も船団護衛のために特務艦隊をいくつか編成して派遣することになり、インド洋を担当する第一特務艦隊司令官に補された。イギリス海軍と協同して行動する必要があり英国通の小栗が選ばれたのだろう。
第一特務艦隊司令官
大正6(1917)年6月1日に海軍中将に進級したが、地中海はともかくインド洋では拠点を持たないドイツ海軍の行動は大きな脅威にならないことが明らかになり、第一特務艦隊の必要性は薄れた。それでも形式的には終戦まで存在したが、小栗は年度末には退任して帰国する。大正7(1918)、8(1919)両年度は呉海軍工廠長、9(1921)年度は海軍将官会議議員に補せられたがいずれも地味な配置だった。
大正10(1921)年度には第三艦隊司令長官に親補されてシベリア出兵への海上からの支援にあたった。海戦は起こり得ない作戦だが長くは苦しい封鎖が続いた。前年に起きた尼港事件で冬季の北方海域での日本海軍の能力不足が明らかになっており、やがて撤退に追い込まれる援引となる。大正10(1921)年度末には舞鶴鎮守府司令長官に移ったが、軍縮で要港部に格下げされることになり大正12(1923)年3月いっぱいで司令長官のポストはなくなり、海軍将官会議議員に転じた。軍事参議官ではなく海軍将官会議議員とされたのは予備役含みだったのだろう。軍縮で海軍高級軍人のポストも減っていた。大正12(1923)年8月3日に海軍大将に親任されたが12月1日に待命となり、翌大正13(1924)年2月25日に予備役に編入されて55歳で現役を離れた。
65歳に達した昭和8(1933)年8月4日に後備役に編入され、昭和13(1938)年8月4日に退役になる。
小栗孝三郎は昭和19(1944)年10月15日死去した。享年77、満76歳。海軍大将正三位勲一等功五級。
おわりに
小栗孝三郎は、第15期が四人輩出した海軍大将の中ではいちばん地味な人物でした。潜水艦の導入では主導的な役割を果たしましたが、その後は体調不良もあって思うような出世ができなかったようです。それでも海軍大将なら十分とも言えるのですが。
小栗の次の第三艦隊司令長官は鈴木貫太郎でした。以下の記事を参照してください。
次回は中野直枝です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は小栗が分隊長として黄海海戦に参加した比叡)
附録(履歴)
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