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海軍大臣伝 (4)山本権兵衛

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は山本権兵衛です。
 前回の記事は以下になります。

海軍兵学寮生徒

 山本やまもと権兵衛ごんべえは嘉永5(1852)年10月15日に生まれる。父は薩摩藩の祐筆だった。薩英戦争には年齢をいつわって砲弾運びに加わり、戊辰戦争に従軍した。維新後は東京でかつ海舟かいしゅうの薫陶をうけ、これからは海軍の時代だという勝の勧めに従って築地の海軍兵学寮(のち海軍兵学校)に入寮する。当時の生徒の中には戊辰戦争での実戦経験を持つ者が多く、教官を馬鹿にするような風潮があったという。山本はしばしば学校当局と衝突し、西郷さいごう隆盛たかもりが下野したときには退校して薩摩に戻ったが西郷自身の説得で帰校した。明治7(1874)年、海軍少尉補を命じられ、明治9(1876)年にはドイツ軍艦ヴィネタ SMS Vineta 乗組を命じられた。山本は海軍兵学校第2期生とされているが、初期の海軍兵学校ではカリキュラムが確定しておらず、入校・卒業は年一回とは限らない。第1期生から第5期生くらいまでは後になってさかのぼって決められたものだが、誰が何期生にあたるかは複数の数え方がある。ただし山本が第2期生という点は異論はないようだ。
 ドイツ軍艦乗組中に西南戦争が勃発し、その報せをうけた同僚のなかには帰国して戦争に加わろうという意見もあったが、山本は「いま帰国しても一兵卒の働きしかできん。我々は訓練を続けるのが国家のためだ」と主張し、それに従って一同は乗艦実習を続けることになった。明治10(1877)年に海軍少尉に任官し、翌年扶桑ふそう乗組となる。扶桑はイギリスで建造されたばかりの当時日本海軍最新鋭の軍艦だった。
 明治18(1885)年、少佐に昇進した山本はイギリスで建造された防護巡洋艦浪速なにわの受領のため渡英する。7年前の扶桑はイギリス人船員によって日本まで回航されたが、浪速では日本人の手でイギリスから日本まで回航されることになる。山本は副長としてこの大事業をやり遂げた。明治19(1886)年には砲艦天城あまぎの艦長に補せられてはじめて一艦の主人となるが、翌年には海軍大臣伝令使(のちの秘書官)として西郷従道つぐみち海軍大臣に仕えることになる。もっともすぐに樺山かばやま海軍次官の欧米視察に随行して日本を離れた。視察は一年に及ぶ。明治22(1889)年からは高雄たかお高千穂たかちほの艦長を歴任し、この間に大佐に昇進した(この時期は中佐という階級はなかった)。

海軍大臣官房主事

 明治24(1891)年6月17日、海軍大臣官房主事に補せられる。のちの海軍省先任副官に相当し、海軍省の庶務を担当したが、事実上は樺山資紀すけのり海軍大臣の助言者となった。樺山大臣は山本が大臣伝令使として一年に渡って欧米視察に随行した樺山次官(当時)であり、その関係から補職されたものだろう。山本が樺山・仁礼にれといった海軍大臣に仕えた時期は明治憲法が施行されてまもなく、議会と政府のあいだで鋭い対立が続いた。そして特に問題となったのが海軍が求める軍艦製造費だった。山本ら海軍の政策担当者にとって清国に対する劣勢は明らかだった。一方で議会の多数は日本の財政はそうした支出を許さないとして逆に海軍の経費節減を求めた。互いの主張は平行線をたどり折り合いはつかず、ようやく明治26(1893)年にいたって明治天皇をわずらわせる形で決着した。しかしこうして建造が認められた軍艦は日清戦争には間に合わず、日露戦争で活躍することになる。
 仁礼大臣の退任をうけて、海軍大臣には西郷従道が再任されることになる。この人事をお膳立てしたのは山本だと伝えられる。同郷の大先輩、というのは樺山も仁礼も同じであるので西郷に限った話ではないのだが、かつて伝令使として働いた経験があるだけに気心が知れていたのだろう。日本的な「部下に任せて責任は負う」タイプのリーダーだった西郷をいただき、長年の懸案だった軍備増強にも一応の目処が立ったことをうけて、山本は海軍の建て直しに本格的に取り組む。人格者で知られた海軍次官の伊藤いとう雋吉としよし中将を差し置いて一介の大佐である山本が推し進めたのが人事の刷新と軍令組織の整備だった。
 山本は維新以来の功績で海軍の要職を占めていた古い士官を退け、海軍兵学校で組織的な教育をうけた士官で置き換えることにした。予備役に編入された士官は将官8名、佐尉官89名におよんだといわれ、山本の同郷である薩摩出身者も多く含まれた。さすがの西郷大臣も「大丈夫か」と心配したが山本は「兵学校出身者が成長しているので大丈夫です。いざとなれば召集すればよいのです」と応じたという。ただ実際の人事発令をみてみると明治24(1891)年ごろからすでに予備役編入ははじまっていて(松村まつむら淳蔵じゅんぞうなど)、この時期に一気におこなわれたような記述には疑問もある。
 海軍の軍令組織は、明治20(1887)年前後の紆余曲折、試行錯誤を経て、海軍大臣に隷属する海軍参謀部が担当することに一応は落ち着いた。海軍だけのことを言えばそれで問題はなかったはずだが、清国との戦争を目前にして陸軍とのバランスが問題になる。陸軍では独立した参謀本部が作戦を担当し、海軍では海軍大臣に従う海軍参謀部が担当するようでは、共同作戦を計画する際に互いの権限に違いがありすぎて対等な協議が難しい。明治26(1893)年5月20日、海軍参謀部は独立して天皇に直隷する海軍軍令部に改められ、形として参謀本部と同格になった。同時に戦時大本営条例が制定され、戦時には参謀総長が帝国全軍の幕僚長をつとめるとされた。陸軍の下風に立たされることになり海軍にとっては不満が残ったが、陸軍の山縣やまがた有朋ありとも大山おおやまいわおの権威は絶大で、当時の参謀総長は皇族の有栖川宮ありすがわのみや熾仁たるひと親王しんのうであり、政治力で劣る海軍は甘受するしかなかった。

 明治27(1894)年、日清戦争が勃発した。帳簿の上では日本海軍は清国に対して明らかに劣勢であり山本も不安だったはずだが結果的に日本の聯合艦隊は清国の北洋艦隊を壊滅に追い込み、有利な形で講和に持ち込むことができた。戦争も終わりがみえた明治28(1895)年3月8日に山本は海軍少将に昇進し、海軍省軍務局長に転じた。海軍の政策決定を担当する軍務局長として山本は、清国から得た賠償金を原資として新たに仮想敵国となったロシアに対抗するための海軍軍備の建設に邁進する。明治31(1898)年5月14日、山本は海軍中将に昇進する。

海軍大臣

 明治31(1898)年11月8日、山本は46歳で海軍大臣に親任される。はじめての政党内閣であった第一次大隈おおくま重信しげのぶ内閣が閣内不一致で退陣したことがきっかけで、この時期は藩閥政府と桂園時代の過渡期であり民権派の流れを汲む政党と、政党に政党で対抗しようとした伊藤いとう博文ひろぶみらの勢力と、超然主義を貫こうとする山縣有朋らのあいだで綱引きが繰り広げられていた。この間、海軍大臣の任命要件として現役海軍大中将と明記されたことが注目される。これは政党内閣の成立を経験して危機感を抱いた山縣有朋が政党員が陸軍大臣の人事に介入てきないような予防措置として導入したものに海軍も追従したものである。しかし山本はこうした政争には深入りせず日露の対決に備えて準備を進めていた。
 戦艦や装甲巡洋艦といった主力艦は大半を欧州、特にイギリスに発注する一方で、防護巡洋艦などの中型以下の軍艦については国産をはかった。駆逐艦のように設計にノウハウが必要な艦種でははじめイギリスに供給を頼っていたが、実艦を研究して国内製造に着手した。このために工作庁の組織整理が進められ、各鎮守府に総合工場である海軍工廠が置かれた。教育機関の充実がはかられ、海軍省の外局として海軍教育本部が新設された。秋山あきやま真之さねゆきなど気鋭の少壮士官を欧米に派遣して見聞を広めさせた。秋山は米西戦争を観戦して決戦の必要性を確信した。

 明治35(1902)年、かつら太郎たろう首相とともに慎重論をとる元老伊藤博文を説得して日英同盟を締結した。この功績で閣僚は爵位一階を賜ることとなり山本も男爵を授けられて華族に列した。
 明治36(1903)年、満州を占領しているロシア軍の撤兵交渉は行き詰まり、開戦が現実味を増してきた10月、山本は海軍の機動運用部隊である常備艦隊の司令長官をすげ替えた。同期生の日高ひだか壮之丞そうのじょうにかえて、舞鶴鎮守府司令長官だった東郷とうごう平八郎へいはちろうをあてた。抗議する日高に山本は「お前は独断専行の嫌いがある。今回の戦争でそれはまずい。東郷は中央の指示に忠実でありながら案外臨機応変の処置ができる男だ。だから代えた」と説明したという。一方で天皇に対しては「東郷は運のよい男だから代えました」と説明したと伝わる。

 陸軍ではロシアの準備が整う前に一刻も早い開戦を望み海軍をせっついていたが山本はそれに応じなかった。戦時には海軍は陸軍の指揮下に入ることになる。戦争の帰結は海軍にかかっていると確信する山本はそれを甘受できなかった。山本は戦時の陸海対等を主張する。わずかな遅れが勝敗を決めかねないと身を焦がすような思いで開戦を求めていた陸軍はやむなく折れた。戦時大本営においても陸海統帥部長(参謀総長・海軍軍令部長)は並立して天皇の幕僚をつとめることになる。この改定について陸軍を主として「開戦を人質に陸海対等を盗みとったもの」と火事場泥棒のようなやり口を批判する声があったが、山本にしてみれば陸軍に海軍作戦へ口出しさせるのは国のためにならないという確信があったのだろう。これをうけて海軍は戦時編制に移行し12月28日に常備艦隊は聯合艦隊に改編され、翌年2月に開戦、戦時大本営が設置された。

 日露戦争の経過についてはここでは詳しく触れない。戦争中の明治37(1904)年6月6日に海軍大将に親任されている。海軍兵学校出身者で海軍大将にまで至ったのは山本がはじめてである。講和後の明治38(1905)年10月23日、明治天皇の行幸を得て横浜沖で凱旋観艦式が挙行された。明治天皇は日清戦争以降、公の場ではもっぱら軍服を着用していたが、その軍服は陸軍式だった。明治37(1904)年8月13日に山本の提案で天皇の海軍式服制が定められ、はじめて実際に着用したのがこの凱旋観艦式だった。長年、陸海対等を求めてきた山本にとって、海軍式の軍服に身を包んだ明治天皇に供奉して凱旋に望んだことはさぞ感慨深かったことだろう。
 日露戦争の決着をみて、明治39(1906)年1月7日に桂内閣は勇退する。山本も海軍大臣を次官の斎藤さいとうまことに譲って軍事参議官に移った。明治40(1907)年9月21日、日露戦争の論功行賞で伯爵に昇った。

内閣総理大臣

 明治45(1912)年7月30日、明治天皇が崩御し大正天皇が践祚した。桂太郎は外遊中だったが急遽帰国し、天皇に近侍して補佐する内大臣兼侍従長に任じられた。当時は西園寺さいおんじ内閣だったが、陸軍大臣の上原うえはら勇作ゆうさくが二個師団の増強案を要求して西園寺首相に拒否されると、天皇に単独上奏して辞職した。西園寺内閣は総辞職する。後継の首相には桂太郎が指名されたが、これが「宮中府中の別を乱す(宮廷と政府は互いに干渉すべきではない)」という批判を呼んだ。西園寺内閣の倒閣が山縣と桂による陰謀だという憶測も飛び交った。桂は切羽詰まって大正天皇に詔勅を出してもらい事態の沈静化をはかったがこれはかえって火に油を注ぐ結果となってしまう。さらに桂は自分が主催する新政党を設立して対抗しようとしたが「偽党」扱いされて支持が得られず、民衆が議会に押し寄せるにいたって総辞職した。わずか3ヶ月のことだった。
 この情勢下にあっては桂はもちろんのこと西園寺も内閣をひきうけられる状況にはなく、古い元老たちはいまさら重任を引き受ける気はない。新たな候補者が探し求められる中、浮上したのが山本権兵衛だった。山本は議会の多数派を占める政友会の支持を条件にこれを受諾する。政友会との政策協定を経て山本内閣が成立する。海軍軍人としてはじめて首相に就任した。

 山本内閣ではまず陸海軍大臣の任用要件から「現役」の規定を削除した。予後備役あるいは退役の陸海軍大中将にまで範囲を広げることになったが、実際には退役軍人の就任は想定されていなかった。現役と違って予後備役軍人は議会に立候補して議員になることができる(実例も多い)。現実に予後備役で陸海軍大臣に就任した例はないが、可能性があるのとないのとではその違いは大きい。
 西園寺内閣からの懸案であった陸軍の二個師団増強についてはいったん保留する一方で、ちょうど激しくなっていた弩級戦艦の建艦競争に対応するための海軍拡張予算が計画された。首相が現役の海軍大将でもありこの予算案はなんなく閣議を通過して大正3(1914)年度予算案として議会に提出された。この審議の最中に発覚したのが海軍史上最大の疑獄事件であるジーメンス事件である。
 日本の海軍士官が兵器の調達に関連してドイツのジーメンス商会から賄賂をうけとったとロイター通信社が報じ、たちまち問題となった。さらに巡洋戦艦金剛の発注において当時の艦政本部長で、現在は呉鎮守府司令長官の松本まつもとやわら中将がイギリスのヴィッカース造船所から賄賂を受け取っていたことが発覚し、家宅捜索を受けた上で拘束された。現に親補職の地位にあるものが拘束されるという前代未聞のスキャンダルだった。海軍が軍艦の増強を求めているまさにそのタイミングで、軍艦の建造にあたって海軍士官が賄賂を受け取っていた疑獄事件は囂々ごうごうたる非難を巻き起こした。与党の政友会が多数を占めている衆議院では予算は通過したものの、貴族院では大幅に削減され、両院協議会もまとまらず予算は不成立になった。山本内閣は総辞職した。
 後継内閣の首班選びは難航したが4月16日に第二次大隈重信内閣が成立し、同日付で山本は待命となった。約ひと月後の5月11日、予備役に編入される。山本はジーメンス事件がなければ元帥は確実だと言われていたがこの時点で海軍を追われることになった。同時に大将に昇進した東郷平八郎はこの直前の4月11日に元帥の称号を得ていた。
 大正6(1917)年に後備役に編入され、大正11(1922)年に退役になる。

 すっかり忘れ去られたかのようになっていた山本が再び表舞台に登場したのは大正12(1923)年のことだった。8月25日、現役の海軍大将で現職の総理大臣である加藤かとう友三郎ともざぶろうが死去した。その後任に挙げられたのが加藤の師匠筋にあたる山本権兵衛だった。この前後は政党に依存しない超然内閣が続いており、首相経験者のなかでももっとも古参の山本に白羽の矢が立てられたのだろう。
 山本が組閣作業を行なっていた最中の9月1日、関東大震災が東京を襲った。緊急事態にあってとにかく組閣を完了するのが最優先と考えた山本は翌2日に宮中で親任式を終えて第二次山本権兵衛内閣が正式に発足した。皇居の外ではまだ火災が続いていた。震災対応に忙殺された山本だが、ようやくある程度の落ち着きを得たかと思った矢先、大正13(1924)年初めに議会の開会式に向かう摂政(昭和天皇)を無政府主義者の青年が狙撃するという事件(虎ノ門事件)が起こり、その責任を負って辞任した。わずか四ヶ月あまりのことだった。

 山本権兵衛は昭和8(1933)年12月9日、日米開戦のほぼ8年前に死去した。満81歳。海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。

海軍大将 伯爵 山本権兵衛 (1852-1933)

おわりに

 日本海軍の父とも呼ばれる山本だけあって逸話には事欠きませんが、単なる逸話の羅列にしないようにするのはかえって大変でした。
 ところでウィキペディアの「西郷従道が山本を海軍大臣官房主事に任命した」という記述は時系列的に明らかに誤りですね。山本が断行した人事整理についても時期を日清戦争後に置いたり、中牟田の更迭をこの文脈に含めたりしているのも疑問です。

 次回は斎藤実になります。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は山本が乗艦していたドイツ装甲コルヴェット・ヴィネタ)

附録(履歴)

嘉永 5(1852).10.15 生
明 3(1870).11.28 海軍兵学寮入寮
明 7(1874).11. 1 海軍少尉補
明 7(1874).11.19 筑波乗組
明 8(1875). 1. 1 海軍兵学寮再入寮
明 8(1875). 4. 筑波乗組
明 9(1876).12.27 独 Vineta 乗組
明10(1877). 6. 8 海軍少尉
明11(1878). 5.25 扶桑乗組
明11(1878).12.27 海軍中尉
明12(1879). 4. 9 乾行乗組
明13(1880).10. 7 龍驤乗組
明13(1880).10.26 乾行乗組
明14(1881). 7.13 浅間乗組
明14(1881).10.24 浅間乗組/海軍兵学校勤務
明14(1881).12.17 海軍大尉
明15(1882). 3.13 浅間乗組
明15(1882).12.11 浅間副長
明18(1885). 5. 4 浪速回航事務取扱委員(英国差遣)
明18(1885). 6.20 海軍少佐
明18(1885).11.20 浪速副長
明19(1886). 6.26 帰着
明19(1886).10.15 天城艦長
明20(1887). 7.11 海軍大臣伝令使
明20(1887). 9.21 海軍次官欧米差遣随行被仰付
明21(1888).10.19 帰朝
明22(1889). 4.12 高雄艦長心得
明22(1889). 8.28 海軍大佐
明22(1889). 8.29 高雄艦長
明23(1890). 9.24 高千穂艦長
明24(1891). 6.17 海軍大臣官房主事
明26(1893). 5.20 海軍省主事
明27(1894). 9. 6 海軍省主事/戦時大本営海軍大臣副官
明28(1895). 3. 8 海軍少将 海軍省軍務局長/海軍将官会議議員
明29(1896). 5.27 海軍省軍務局長/海軍将官会議議員/海軍臨時建築部長
明31(1898). 5.14 海軍中将
明31(1898).11. 8 免本職兼職 海軍大臣
明35(1902). 2.27 男爵
明37(1904). 6. 6 海軍大将
明39(1906). 1. 7 免海軍大臣
明39(1906). 1. 9 軍事参議官
明40(1907). 9.21 伯爵
大 2(1913). 2.20 免本職 内閣総理大臣
大 3(1914). 4.16 免内閣総理大臣 待命被仰付
大 3(1914). 5.11 予備役被仰付
大 6(1917).10.15 後備役被仰付
大11(1922).10.15 退役被仰付
大12(1923). 9. 2 内閣総理大臣/外務大臣
大12(1923). 9.19 内閣総理大臣
大13(1924). 1. 7 免内閣総理大臣
昭 8(1933).12. 9 死去

※明治5年までは旧暦

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