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海軍大臣伝 (5)斎藤実

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は斎藤実です。
 前回の記事は以下になります。

海軍士官として

 斎藤さいとうまことは安政5(1858)年10月27日、仙台藩伊達だて家の一門水沢伊達氏に代々仕える家系に生まれた。水沢伊達氏家臣としては高い家格ではあったが、仙台藩主からみれば陪臣ということになる。維新の後、明治6(1873)年に海軍兵学寮(のち海軍兵学校)に入寮して海軍士官の道を選んだ。当時の日本海軍は薩摩閥の天下で、朝敵となった仙台藩出身の斎藤は面接で「少佐でクビだな」と言われたという。
 優秀な成績で海軍兵学校を卒業し、明治12(1879)年に海軍少尉補を命ぜられ、明治15(1882)年に海軍少尉に任じられた。中尉から大尉の時期、明治17(1884)年から明治21(1888)にかけての4年あまりアメリカに派遣された。駐在武官の先駆けだった。帰国後は艦隊勤務や参謀勤務を経て明治26(1893)年に海軍少佐に昇進し、海軍大臣官房人事課に勤務した。
 日清戦争がはじまり宮中に戦時大本営が設置されると、最高指揮官である天皇の軍事秘書官として軍事内局が大本営のいち部門として設立された。これもドイツ陸軍の軍事内局にならったものである。軍事内局員である侍従武官は天皇に常時扈従して下問に応じ、軍首脳の謁見に陪席した。明治27(1894)年9月7日に斎藤は侍従武官に補されて明治天皇の近くで勤務することになる。大本営が広島に移って明治天皇が広島城内の第五師団司令部で過ごしていたときも当然したがったことだろう。明治28(1895)年2月20日に斎藤は巡洋艦和泉いずみの副長に転出するが、侍従武官は戦後正式に制度化される。
 明治29(1896)年、イギリスで建造された日本で最初の本格的な戦艦富士ふじを受領するため渡英する。副長として帰国したのは翌年秋のことだった。明治30(1897)年12月1日には一時廃止されていた海軍中佐の階級が復活して斎藤も昇進したが、1ヶ月も経たない同月27日に海軍大佐に昇進した。秋津洲あきつしま艦長、ついで厳島いつくしま艦長をつとめた。

海軍次官

 明治31(1898)年11月8日、内閣が交代して海軍大臣が山本やまもと権兵衛ごんべえに変わった。山本は海軍次官に斎藤を選んだ。山本自身が中将になりたてで46歳だったが、斎藤は一年目の大佐で40歳だった。当時の海軍にあっても異例の若さで、並み居る先輩を差し置いた抜擢人事に斎藤は尻込みしたが、山本が「かまわんから(次官に)なれ」というので引き受けることにした。
 次官時代の斎藤の功績は目立たないが、山本大臣は斎藤を次官として使い続け、自分が退任するときには後任に据えている。全幅の信頼を置いていたことは想像に難くない。明治33(1900)年5月20日に官制改正があって官名が海軍総務長官と変わった(同時に海軍少将に昇進)が、日露戦争直前の明治36(1903)年12月5日に海軍次官に復した。日露戦争がはじまり戦時大本営が設置されると斎藤は海軍軍事総監を命じられ、艦隊の後方支援を統括した。戦争中の明治37(1904)年6月6日に海軍中将に昇進している。

海軍大臣

 日露戦争後の明治39(1906)年1月7日、斎藤は海軍大臣に親任された。ときに47歳。翌明治40(1907)年9月21日には日露戦争の功績により男爵を授けられ華族に列せられた。この時期の海軍は難しい状況に置かれていた。日露戦争に勝利して海軍の兵力は膨張していた。例えば戦艦についてみると開戦時に保有していた6隻のうち2隻を失なったが、戦時中にイギリスで建造した2隻に加えて捕獲した旧ロシア艦5隻を加えて合計11隻と戦前の倍近くに膨れ上がっていた。しかし時代は日露戦争の戦訓を経て弩級戦艦の時代に入っていた。日本海軍が保有していた戦艦は例外なく時代遅れになっていた。その点を置いても、旧ロシア艦はフランス式の設計の影響が強く、イギリス式の日本海軍にとっては使いづらかった。額面上の兵力は大きいが、実体としての戦力はそれほどでもないという「水脹れ」状態にあった。
 軍備に責任をもつ海軍大臣である斎藤としては、より近代的な軍艦を整備して旧式になった軍艦を置き換えることを考えたのは当然のことだった。しかし当時の日本は日露戦争で費やした莫大な戦費、特に戦債の償還に苦心していた。このころ、イギリスとドイツは弩級戦艦の建艦競争を繰り広げており、毎年のように新型の主力艦を複数就役させていた。例えばイギリス海軍は明治41(1908)年から明治44(1911)年までの4年間に13隻の主力艦を就役させている。日本海軍が新たに仮想敵国としたアメリカも弩級戦艦を建造していた。厳しい財政の中から日本海軍も新型艦の整備を進めたが、英米と比べるとそのペースは遅く、その性能も欧米の最新鋭艦に比べると立ち遅れていた。
 明治43(1910)年、海軍は明治44(1911)年度から6年継続で軍備拡張計画を提案し、予算案を議会に提出して協賛をみた。もともと予算が承認されていた大型装甲巡洋艦だが、明治44(1911)年度予算で追加支出が認められ、一番艦は技術導入を兼ねてイギリスに発注され、同型艦は国内建造された。これが当時世界で最強といわれた金剛こんごう級巡洋戦艦である。翌年にもさらに追加予算が措置され、明治45(1912)年度以降7ヶ年計画と改められた。元号が変わって大正2(1913)年度計画は陸軍増師問題で西園寺さいおんじ内閣が倒れ、さらにかつら内閣が大正政変で相次いで倒れたために後回しになっていたが、山本内閣で成立をみた。
 かつて次官として仕えた山本海軍大臣がいまや内閣総理大臣の地位にあり、議会の多数を占める政友会が与党として内閣に参加しており、予算を求めるにはこれ以上の好条件はなかった。斎藤はさらなる追加予算を大正3(1914)年度予算案として議会に提出する。この審議に入った矢先にジーメンス事件が発覚する。多額の予算を要求している海軍がその裏で賄賂を得ているとあって、海軍を非難する世論が巻き起こった。山本も斎藤も疑惑とは無関係だったが、長年海軍の行政を取り仕切ってきた責任は免れられなかった。政友会が多数を占める衆議院では予算は政府案どおり可決されたが貴族院では大幅に削減され、両院協議会も不調に終わり予算は不成立になった。山本内閣は総辞職し、斎藤は次の第二次大隈おおくま重信《しげのぶ》内閣には残れず、大正3(1914)年4月16日付で待命をおおせつけられ、5月11日予備役に編入された。

朝鮮総督

 引退生活を送っていた斎藤が再び表舞台に現れるのは第一次大戦も終わった大正8(1919)年のことだった。アメリカ大統領ウィルソンが提唱した民族自決原則により民族意識が高まっていた朝鮮で、ちょうど韓国の前皇帝高宗コジョン(明治40(1907)年退位)が亡くなったその葬儀をきっかけに大規模な反日運動が広がった(三一運動)。朝鮮総督の長谷川はせがわ好道よしみち(元帥陸軍大将)は責任を負って辞任、その後任として挙げられたのが斎藤だった。当時の官制では朝鮮総督は陸海軍の指揮権をもつことから陸海軍大将を充てるとされており、8月12日に特に現役復帰を命じられた上で朝鮮総督に親任された。
 斎藤は歴代朝鮮総督で唯一の海軍大将(他はすべて陸軍大将)であり、これまで憲兵が主に治安維持にあたっていた朝鮮で、その役割を警察に移して憲兵は軍事警察に限定することとした。就任直後の8月20日に朝鮮総督府官制を改正し、総督の軍事指揮権を廃止し、総督の任命要件から陸海軍大将を削除した。現実にはこの後も総督に就任するのは陸海軍大将に限られたが、現役ではなく予備役の大将が就任する例となった。
 斎藤の施政はそれまでの「武断政治」から「文化政治」に移ったとして好意的に評価されることが多いが、これまで憲兵などの剥き出しの軍事力で押さえつけていたのが退いてかわりに警察が前面に立つようになっただけで、現地住民が圧迫されていたことはかわりない。しかし表面上でも文治政策がとられるようになったことで政情が一定の安定をみたことも確かである。こうした姿勢には斎藤の温厚な性格も影響していたかも知れない。
 大正14(1925)年4月9日、朝鮮統治の功績により爵位を子爵に進められる。昭和2(1927)年4月にジュネーブで開かれた軍縮会議に全権として派遣されたが、この会議ではアメリカとイギリスの主張に隔たりがあって決裂してしまった。帰国後、朝鮮総督在任8年を過ぎた昭和2(1927)年12月10日に辞任した。すでに69歳に達していて海軍大将の現役定限年齢(定年。65年)を超えていたが特に現役にとどめられていた。辞任の翌日、後備役に編入され今度こそ現役を離れることになる。枢密顧問官に親任され、翌年には70歳に達して退役となった。
 ところが、後任の朝鮮総督となった山梨やまなし半造はんぞう(予備役陸軍大将)が朝鮮疑獄で辞任してしまう。71歳の斎藤が朝鮮総督に返り咲くこととなり、昭和4(1929)年8月17日に親任される。現役の規定はすでに無いので退役海軍大将の身分で就任した。今回の就任は中継ぎのような形となり、2年も経たない昭和6(1931)年6月17日、宇垣うがき一成かずしげに総督を譲った。斎藤の朝鮮総督在任は通算で約10年になる。

内閣総理大臣・内大臣

 帰国から1年後、海軍の若手士官や陸軍の士官候補生が首相官邸を襲って犬養いぬかい首相を殺害した。515事件である。これまで現職の首相が病死にせよ暗殺にせよ欠けた場合には同じ政党の指導者が首相を継承するのが憲政の常道と考えられていた。内閣与党の政友会では鈴木すずき喜三郎きさぶろうを後継総裁に選出し、当然鈴木が組閣するものと考えていた。しかし首相の推薦権をもつ元老西園寺公望きんもちのところに陸軍から政党内閣には協力しない意向が伝えられる。昭和天皇からもファッショに近い者は不可という希望はあったが政党内閣に限定する言葉はなかった。
 西園寺は政党内閣を断念して挙国内閣をめざした。その首班として白羽の矢が立てられたのが、長く国外にあって特定の政治勢力との結びつきがなく、朝鮮統治の実績も豊富で、穏健でファッショとは真逆の立ち位置にあり、英語が堪能で米英の考え方を熟知して国際協調主義をもつ斎藤実だった。昭和7(1932)年5月26日、斎藤実内閣が成立する。閣僚は当時の二大政党であった政友会と民政党の両方からとられた。

 しかし斎藤内閣では国内の衝突回避を優先して陸軍に融和的な態度をとった。その最たるものが満州国の承認と、それを否定する国際連盟からの脱退だった。しかしこうした政策も陸軍からは生ぬるく思えたらしい。昭和9(1934)年1月、帝国ていこく人絹じんけんが政界に賄賂をばら撒いたとされる帝人ていじん事件が報じられ、政財界を巻き込むスキャンダルに発展した。合計16人が起訴されるにいたり7月8日、斎藤内閣は総辞職した。後継内閣を組織したのは海軍の後輩にあたる岡田おかだ啓介けいすけだった。
 帝人事件の裁判でははじめから証拠が乏しいとされ、あとになってそれを聞いた斎藤は「つまらないことで辞職したんだなあ」と慨嘆したと伝わる。斎藤の死後になって言い渡された判決では証拠不十分で全員無罪となり、事件そのものが斎藤内閣の倒閣を狙った捏造だったと考えられている。

 昭和10(1935)年12月26日、牧野まきの伸顕のぶあき内大臣が退任し、後任の内大臣に斎藤実が就任した。内大臣は官制上では国璽や御璽を保管し詔勅などの文書の処理に携わるなどとされていてその職務の範囲は曖昧だったが、現実には天皇を常時輔弼してその下問に応じることが主な職掌で、政治経験の豊富なもと閣僚や官僚が多く任命されたこともあり、事実上の天皇の政治顧問として働いた。昭和15(1940)年以降、元老が絶えたのちには内大臣が重臣(首相経験者)の意見を聞いた上で首相を推薦することとされ、政治的に重要な役割を担った。それだけに天皇の信任がなければとてもつとまらない役職でもあった。
 しかし陸軍の急進派(皇道派)からは既成勢力である重臣ブロックの主要メンバーとみなされて敵視されることになる。内大臣就任からちょうど三ヶ月目に起こった226事件で斎藤は襲われ、機関銃を撃ち込まれて殺害された。満77歳。海軍大将従一位大勲位功二級子爵。

海軍大将 子爵 斎藤実 (1858-1936)

おわりに

 斎藤実は山本権兵衛の影にかくれてあまり目立ちませんが日本海軍の発展に多大な貢献をしたことは間違いありません。海軍大臣を退任するきっかけになったのがジーメンス事件、首相を退任するきっかけになったのが帝人事件と、自らが関係していない疑獄事件で二度もその座を追われることになったのは可哀想に思いました。その一方でこれまた自分と無関係な朝鮮疑獄で朝鮮総督に返り咲くことになったのですが。もっとも本人には迷惑だったかもしれません。
 斎藤内閣時代の陸軍の意を汲んだ施政は褒められたものではありませんが、それでも軟弱とされた挙句に命まで奪われたのは理不尽というしかありません。

 次回は八代六郎になります。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は斎藤が大佐時代に艦長をつとめたことがある巡洋艦厳島)

附録(履歴)

安政 5(1858).10.27 生
明 6(1873).10.27 海軍兵学寮入寮
明11(1878). 1.14 乾行乗組
明11(1878). 6.18 金剛転乗
明12(1879). 2. 6 筑波転乗
明12(1879). 7. 3 海軍兵学校帰校
明12(1879). 8. 9 海軍少尉補
明13(1880). 2.17 乾行乗組
明13(1880). 5.27 扶桑乗組
明14(1881).10.19 海軍兵学校学術課程卒
明15(1882). 9. 8 海軍少尉
明16(1883). 3. 2 扶桑乗組
明17(1884). 2. 8 海軍軍事部出勤(第二課兼第四課)
明17(1884). 2.25 海軍中尉
明17(1884). 4.24 米国差遣被仰付
明17(1884). 9.19 米国在勤帝国公使館勤務被仰付
明19(1886). 3.31 参謀本部海軍部出仕
明19(1886). 7.14 海軍大尉
明21(1888). 5.14 海軍参謀本部出仕
明21(1888).10.26 帰朝
明22(1889). 3. 9 海軍参謀部第一課員
明22(1889). 4.17 高雄砲術長兼水雷長分隊長
明22(1889). 7.29 常備艦隊参謀
明24(1891). 7.23 海軍参謀部出仕
明24(1891).12.14 海軍参謀部第三課員
明25(1892). 6. 3 高雄副長心得
明26(1893).12.20 海軍少佐 海軍大臣官房人事課課僚/海軍省軍務局第一課課僚
明27(1894). 9. 7 侍従武官
明28(1895). 2.20 和泉副長
明28(1895). 5.17 常備艦隊参謀
明29(1896).11. 6 富士回航委員(英国出張被仰付)
明29(1896).11.21 富士副長
明30(1897).10.31 帰着
明30(1897).12. 1 海軍中佐
明30(1897).12.27 海軍大佐 秋津洲艦長
明31(1898).10. 1 厳島艦長
明31(1898).11.10 免本職 海軍次官
明31(1898).11.12 海軍次官・海軍将官会議議員心得
明33(1900). 1.12 海軍次官・海軍臨時建築部長心得/海軍将官会議議員心得
明33(1900). 5.20 海軍少将 海軍総務長官・海軍省軍務局長/海軍将官会議議員/海軍臨時建築部長
明33(1900).10.25 海軍総務長官・海軍臨時建築部長/海軍将官会議議員
明36(1903).11. 5 海軍総務長官・海軍将官会議議員/海軍臨時建築部長
明36(1903).12. 5 海軍次官・海軍将官会議議員/海軍臨時建築部長
明37(1904). 2. 3 海軍次官・海軍省軍務局長/海軍将官会議議員/海軍臨時建築部長
明37(1904). 2.11 海軍次官・海軍省軍務局長/海軍将官会議議員/海軍臨時建築部長/戦時大本営海軍軍事総監/戦時大本営海軍軍務部長
明37(1904). 6. 6 海軍中将
明38(1905). 1. 7 海軍次官・海軍省軍務局長/海軍艦政本部長/海軍教育本部長/海軍将官会議議員/海軍臨時建築部長/戦時大本営海軍軍事総監/戦時大本営海軍軍務部長
明38(1905).11. 7 海軍次官・海軍省軍務局長/海軍艦政本部長/海軍将官会議議員/海軍臨時建築部長/戦時大本営海軍軍事総監/戦時大本営海軍軍務部長
明38(1905).12.20 海軍次官・海軍艦政本部長/海軍将官会議議員/海軍臨時建築部長
明39(1906). 1. 7 免海軍次官免本職兼職 海軍大臣
明40(1907). 9.21 男爵
大元(1912).10.16 海軍大将
大 3(1914). 4.16 免海軍大臣 待命被仰付
大 3(1914). 5.11 予備役被仰付
大 8(1919). 8.12 現役復帰 朝鮮総督
大14(1925). 4. 9 子爵
昭 2(1927). 4.15 ジュネーブ軍縮会議全権被仰付
昭 2(1927). 9. 帰朝被仰付
昭 2(1927).12.10 免朝鮮総督
昭 2(1927).12.11 後備役被仰付
昭 2(1927).12.17 枢密顧問官
昭 3(1928).11.17 退役被仰付
昭 4(1929). 8.17 朝鮮総督
昭 6(1931). 6.17 免朝鮮総督
昭 7(1932). 5.26 内閣総理大臣/外務大臣
昭 7(1932). 7. 6 内閣総理大臣
昭 9(1934). 3. 3 内閣総理大臣/文部大臣
昭 9(1934). 7. 8 免内閣総理大臣文部大臣
昭10(1935).12.26 内大臣
昭11(1936). 2.26 死去

※明治5年までは旧暦

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