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イギリス戦艦の黎明 1873-1892

はじめに

 近代戦艦の歴史を振り返ってみるといくつかのエポックが見受けられる。1861年の装甲艦の登場と1906年の弩級艦の誕生がその最たるものだが、最初の戦艦と呼ばれるロイヤル・ソブリン Royal Sovereign の就役 (1892年) と、戦艦の原形とされるデバステーション Devastation の就役 (1873年) も大きな契機とみていいだろう。

 しかしこれはあくまでも後世になって振り返ったときにそう見えるということにすぎず、当時者にとってはこうした発展は想定されたものでもなかったし、実際この間も紆余曲折があり直線的に発展してきたとはいえない。

 自分もかつては単純化された説明を受け入れていた。つまりデバステーションがやがてロイヤル・ソブリンに繋がり、最終的に弩級艦が誕生したものと理解していたのだが、この時期について少し詳しく調べていくと疑問が湧いてきた。まずこの間 20年近くという当時としては長い時間がかかっていること。そしてこの間、帆走設備を残した中央砲郭艦が建造されるなど後世からみると「後戻り」とも受け取れるような現象が起きていること、などである。

 こうした問題意識のもとにさらに突っ込んで調べてみたところ、一応の経緯が自分なりに整理できたのでまとめてみたのが小文である。

初期の装甲艦

 19世紀初め、ナポレオン戦争当時の主力艦 capital ships は帆走木造で2層ないし3層の砲甲板に前装滑空砲 muzzle loader smooth bore MLSB をずらりと並べて舷側に開けた砲門から砲撃する戦列艦 ships-of-the-line だった。世紀半ば頃には蒸気機関とスクリュー式のプロペラが広く戦列艦に採用されるようになったがあくまで補助機関としての扱いで基本構造に大きな違いはなかった。

 1855年に勃発したクリミア戦争では英仏艦隊とロシアの陸上要塞の間で砲撃戦が繰り広げられた。この際、適切な射撃位置につくためには蒸気機関が非常に有効であることが確認されたが、それに加えて装甲された浮砲台 floating batteries の有効性が認識された。自走能力をもたないこうした浮砲台は射撃位置への配置や撤収には他の蒸気艦に曳航される必要があったが、正確な射撃と強力な防御力で対戦するロシア砲台には脅威となった。浮砲台の多くは第一線を退いた帆走戦列艦を改造したものだった。

 戦後の1859年、フランスは建造中だった木造戦列艦を設計変更し装甲艦 ironclads とした。グロワール Gloire と命名され1860年に就役した。この情報に接したイギリスは(当時こうした情報は素早く伝わった)新設計の装甲艦の建造にとりかかった。構造材を木製のままとしたグロワールに対しすべて鉄構造としたはるかに徹底したものだった。ウォーリア HMS Warror と命名され1861年に就役する。これらの装甲艦は戦列艦の兵装配置を踏襲して装甲を施し舷側砲門艦 broadside ironclads と呼ばれた。なお装甲を施した代償として砲甲板は1層となった。当時1層砲甲板の軍艦はフリゲートに類別されたことからこうした艦を装甲フリゲート armoured frigates と呼ぶ文献もある。

復元保存されているウォーリア


 ウォーリアが建造された当時イギリス海軍の建造主任 Chief Constructor はアイザック・ワッツ Isaac Watts (1797-1876) だったが、まもなく (1863年) リード Edward Reed (1830-1906) に代わった。舷側砲門艦で多用されていた68ポンド滑空砲 68-pounder と実弾 solid shell では装甲艦の装甲を貫徹できないことが問題となっており攻撃力の強化は喫緊の課題だった。その課題に対するリードの回答が中央砲郭艦 central battery ships だった。船体中央部に大威力・大重量の主砲を少数搭載しその部分に集中的に装甲を施した。1860年代後半には中央砲郭艦が主流となった。フランスなど他国も追従したが、イギリス以外では砲郭艦 casemate ships とも呼ばれる。

中央砲郭艦の基本計画例

砲塔艦の誕生

 大口径砲を旋回式の砲塔に搭載するというアイデアもクリミア戦争から生まれた。この戦争に参戦していたコールズ大佐 Cowper Coles (1819-1870) が考案した砲塔 turret を最初に搭載したのはデンマーク向けの装甲艦ロルフ・クラーケ KDM Rolf Krake だった(1863年就役)。コールズは英海軍に本格的な砲塔艦 turret ships を導入することを強く主張し、海軍本部 Admiralty に建造を認めさせた。モナーク HMS Monarch は船体中央部中心線上に2基の砲塔を前後に配置し1869年に就役した。しかしコールズはリードの設計に納得できず、ロビー活動の末みずからの設計による砲塔艦の建造を認めさせる。リードや海軍本部は計画に関与せず、技術的な責任はコールズと建造所が負うという異例の扱いだった。キャプテン HMS Captain と命名されたその艦は1870年に就役したが数ヶ月後、大西洋上で行動中に悪天候のため転覆し同乗していたコールズ大佐もろともに沈没してしまった。

砲塔艦モナークの基本計画図

 キャプテンの喪失は砲塔艦の終わりを意味しなかった。リードが設計したモナークは行動をともにしていたにもかかわらず、まったく問題が見られなかったからである。沈没の原因は砲塔艦という形態そのものではなく、専門的な知識をもたないコールズ大佐の設計によるものと判定された。砲塔艦の根本的な問題は別にあった。舷側砲門艦や中央砲郭艦では、主砲は帆走設備が置かれた上甲板より低い砲甲板に置かれ、帆柱や帆走設備が射界を遮ることはない。しかし砲塔はごく少数の砲を旋回する砲塔という仕組みで最大限活用しようとする発想である。帆走設備や上部構造物で射界が制限されるのはその価値を大きく毀損してしまう。

保存されている戦列艦ビクトリー。帆柱のみならず、帆桁を操作するためのロープや縄梯子代わりのネットなど多くの索具が砲塔射界を妨げる。

 実際に艦隊で運用された砲塔艦の評価そのものは好意的だった。砲塔の価値は明らかだった。しかし帆走設備との相性の悪さはどうにもならなかった。リードは思い切って帆走設備そのものを全廃することにした。蒸気機関の信頼性は上がっている。主力艦が大型化しつつあることもあり帆走だけに頼る機会は減っていた。リードは1870年に退任したので基本構想を示すにとどまり、詳細設計は後任のバーナビィ Nathaniel Barnaby (1829-1915) に委ねられ1873年に就役した。これがデバステーション HMS Devastation である。後年「近代戦艦の原形」と呼ばれるエポックメーキングな装甲艦だった。

砲塔艦デバステーション

デバステーションとその評価

 デバステーションは比較的低い甲板の主船体中央部に一段高い船楼甲板 breastwork をもうけ、中央部に主檣や煙突、艦橋などの上部構造物をまとめ、船楼甲板の前後端に旋回砲塔を配置した。全周に対して少なくともひとつの、大半の射界に対して全ての砲塔を指向でき、その優位性は明らかだった。

デバステーションの基本計画図

 ただしリード自身は帆走設備を持たないなら砲塔艦が望ましいが帆走設備を残すならば中央砲郭艦が最適だと考えていたと伝わっている。低い乾舷からも主に近海での運用が想定されていて遠く海外に派遣することは考慮されていないことが伺われる(実際には地中海に派遣されたことはあった)。また同型艦サンダラー HMS Thunderer はデバステーションの実績を確認するために意図的に建造が遅らされ、就役は1877年にずれ込んだ。デバステーション自体は革新的ではあったが、建艦思想そのものを変えたと言えるほどの影響はなかった。準同型艦のドレッドノート HMS Dreadnought (1879年就役)は船楼甲板を船体全体に広げて、のちのロイヤル・ソブリンに繋がる発想とも評価できるが、あとが続かなかった。

ドレッドノートの基本計画図

停滞期

 1870年代から1880年代、イギリス海軍の主力艦建造ペースは明らかに落ちていた。これは実は他国も同じ傾向が見られる。まず1860年代に集中して建造された装甲艦によりそれまで用いられていた戦列艦が一掃され置き換えが一段落した。また当時は普仏戦争を経てドイツとイタリアが統一されて欧州の国際情勢は安定していた。ドイツ宰相ビスマルクが列強の勢力均衡に腐心していたことも大きい。

 新しい艦種もなりを潜めていた。イギリスでは帆走設備を残した中央砲郭艦や砲塔艦がいまだに建造されていた。ただし砲塔艦については中心線上ではなく互い違いに配置して前後方向への射界を大きくしようとした。こうした砲塔艦はシタデル艦 citadel ships として区別されることもある。このアイデアはイギリス発祥ではなくイタリアのベネデット・ブリン Benedetto Brin (1833-1898) が考案したもので、例の如くまだ建造中からイギリスに漏れて追随された。

シタデル艦インフレキシブル HMS Inflexible の基本計画図

 停滞の時代にも要素技術の進歩は着実に進んでいた。もっとも注目すべきなのは機関の進歩である。当時の主流は缶 boiler でつくった蒸気の圧力でピストンを動かす往復動機関 reciprocating engine だが、それまで多用されていた水平往復機関 trunk engine の代わりに垂直三連往復動機関 vertical triple expansion engine VTE が採用されるようになる。蒸気を高圧・中圧・低圧のピストンに順次通して無駄なく利用するもので、高出力が得られるのと同時に燃費も劇的に向上した。

垂直三連往復動機関の模式図

 船体の大型化もあり帆走する機会はほとんどなくなっていた。1881年に就役したシタデル艦インフレキシブル HMS Inflexible は完全な帆走設備を備えていたが、艦長だったフィッシャー John Arbuthnot Fisher (1841-1920) は「ハエがカバを押すくらいの効果しかない」と酷評している。就役後に帆走設備を撤去することも相次いだ。

近代戦艦への助走〜「提督」級

 1880年代に入ると計画の時点でもはや主力艦に帆走設備を設けないようになる。まず試作的に建造されたのがコリングウッド HMS Collingwood だった (1887年就役)。設計したのはバーナビィ(1875年に職名が海軍建造本部長 Director of Naval Construction DNC と変わった)である。基本的な配置はデバステーションのそれを踏襲しているが、主砲は砲塔装備ではなく露砲塔にかわった。装甲された旋回砲台 barbette 上に露出した砲が搭載されたもので重心をできるだけ低くする意図があったと考えられる。

 コリングウッドはある程度成功したとみなされ、兵装の異なる準同型艦を含めて合計6隻が建造された。いずれもイギリス海軍の提督にちなんだ艦名を与えられたため「提督」級 “Admiral”-class と総称される。しかしこれらの艦はデバステーションの欠点をも受け継いでいた。乾舷が低く一部の艦では舷側装甲板が水線下に水没していたと言われる。当時のイギリス海軍には重心の上昇を忌避する傾向があり、さらに乾舷が低い方が交戦時に目標となる面積が小さくなり有利だとする思想もあった。

コリングウッドの基本計画図

 「提督」級に続くヴィクトリア HMS Victoria 級とトラファルガー HMS Trafalgar 級は露砲塔のかわりに円筒形の砲塔を搭載した。重心上昇を嫌った結果、「提督」級では船楼甲板上に装備されていた主砲が上甲板上に一段引き下げられた。低い乾舷は維持されたため、主砲は水面上ごく低い位置に置かれることとなり悪天候時の射撃が困難だった。

ヴィクトリアの基本計画図

ホワイトの登場

 1885年、海軍建造本部長がバーナビィからホワイト William White (1845-1913) に代わった。ホワイトは当時アームストロング社に勤めていたが海軍本部のたっての依頼で就任したという。ホワイトがまず手をつけたのが王立海軍工廠の組織改革だった。政権交代により意図通りの結果は必ずしも得られなかったが、海軍工廠の建造能力は大きく向上した。続いてホワイトは既存の艦艇の多くがすでに時代遅れかそうなりつつあるとして今後建造すべき艦艇のリストを示した書簡を海軍本部に提出した。この提言は1889年に海防法 Naval Defence Act of 1889 として結実する。

 海防法の成立を受けてホワイトは新戦艦8隻の設計にとりかかる。このときホワイトは従前の主力艦に比べて2割以上大きいサイズを許容するという承認を得ていた。これまでイギリス海軍では量的な優勢を確保するためにも個艦のサイズは小さく安価であることが重視されてきた、その発想をホワイトは転換させた。ホワイトが海軍本部に提案したのは「提督」級を基礎としながら主砲が置かれた船楼甲板の高さで全長全幅にわたる全通甲板を設けるというもので、乾舷を高めて悪天候であっても安定して航海・戦闘ができる艦を目指したのである。ところがこれに海軍本部の一部の提督が強硬に抵抗し、ホワイトは8隻のうち1隻を砲塔艦として建造するよう妥協を強いられた。この砲塔艦はフッド HMS Hood と命名され1893年に就役した。

砲塔艦フッド

近代戦艦の誕生

 ホワイトが設計した7隻の新戦艦(一番艦の艦名からロイヤル・ソブリン Royal Sovereign 級と呼ばれる)は、1892年から1894年にかけて続々と就役し艦隊に編入された。高い乾舷の効能はフッドと比較してみれば明らかだった。同サイズのフッドでは少し悪天候になると甲板が水浸しになり作業もままならないのに対し、ロイヤル・ソブリン級では多少の悪天候では波が甲板に打ち込むようなことはなく安定して作業することができた。ただホワイトはひと回り大きくなった船体の安定性を過信してビルジ・キール bilge keel を省略してしまったため悪天候時に横揺れが激しく主砲の照準が困難なほどだった。速やかにビルジ・キールの追加工事が行われて激しい横揺れは解消された。

戦艦ロイヤル・ソブリン
ロイヤル・ソブリン級の基本計画図
ロイヤル・ソブリン級の露砲塔
ビルジ・キール

 続くマジェスティック HMS Majestic 級では露砲塔の代わりに密閉式の装甲された砲台覆い gunhouse が設けられ、荒天時でも安定して操作が行なえると同時に戦闘時に乗員が保護されるようになった。この砲台覆いもやがて砲塔 turret と呼ばれるようになる。

 こうして近代戦艦が誕生した。これは列強に波及して共通の基本構造をもつ戦艦 battleships 、より厳密には前弩級戦艦 pre-dreadnought battleships と呼ばれるカテゴリが確立した。日露戦争でわが連合艦隊の主力となった6隻の戦艦もすべてこのカテゴリに属する。

おわりに

 日露戦争の戦訓を受けて1906年に就役したドレッドノート HMS Dreadnought は「弩級」という言葉を生んだことからわかるように、革新的であったことは間違いない。しかしドレッドノートの革新もそれまで積み上げられたものがなければ生まれることはなかった。現代では戦艦は過去の存在になってしまったが、だからこそその歴史を振り返ってみる価値があると信じている。

 なお、全体の流れを追うことを優先した結果、やむなく記述を省略した事項も少なくない。例えば砲や装甲の進歩などは戦艦の歴史という観点では重要な要素なのだが、触れられなかった。こうした点についてはまた機会があれば別に触れたい。

主な参考文献

Brown, David K., Warrior to Dreadnought: Warship Development, 1860–1905, Chatham Publishing, London (1997)

Burt, Ray A.; British Battleships, 1889–1904 (Barnsley, 2013 ) Seaforth Maritime Press

Gardiner, Robert (ed.), Conway’s All the World’s Fighting Ships, 1860–1905, Conway Maritime Press, London (1979)

Konstam, Angus, British Ironclads 1860-75 HMS Warrior and the Royal Navy’s “Black Battlefleet”, Osprey Publishing, Oxford (2018)

Konstam, Angus, European Ironclads 1860-75 The Gloire sparks the great ironclad arms race, Osprey Publishing, Oxford (2019)

Konstam, Angus, British Battleships 1890-1905 Victoria’s steel battlefleet and the road to Dreadnought, Osprey Publishing, Oxford (2020)

Wikipedia 各項目

なお、図版や画像は Wikipedia より引用

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