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日本軍の親補職

 日本陸海軍の親補職の歴史を簡単に眺めて見ます。
 官と職について、陸海軍の組織については以下の記事を参照ください。

親補職のはじまり

 明治のはじめには官と職の別は明確ではなく、したがって親補職という概念そのものが存在しなかった。明治憲法の施行にあわせて官吏制度が整理され、官制で親補職がはじめて規定されたのは明治23(1890)年、参謀総長監軍が親補と定められたときだった。監軍はのちの教育総監にあたる。
 明治26(1893)年、陸軍の参謀本部に相当する海軍の軍令組織である海軍軍令部が設立されると、その長である海軍軍令部長が親補とされた。海軍では最初の親補職である。
 明治31(1898)年、東京防禦総督が親補とされた。

制度の確立

 明治31(1898)年に監軍を改編した教育総監は当初親補職ではなかったが、明治33(1900)年に親補とされた。この年は親補職の規定が相次ぎ、陸軍では戦時の軍司令官要員とみなされた東部、中部、西部都督が親補と改められた。海軍では艦隊司令長官鎮守府司令長官が親補と定められる。
 明治35(1902)年には平時の陸軍最大部隊である師団を統率し天皇に直隷する師団長が親補と定められた。

 明治37(1904)年、日露戦争を目前にして東京防禦総督が廃止され東京衛戍総督に改編されるが引き続き親補職とされた。同時に都督は廃止され、軍事参議官がもうけられた。軍事参議院は天皇の軍事的な諮問に応ずる機関で、陸海軍大臣、陸海統帥部長、元帥、陸海軍大中将から特に親補された軍事参議官で構成するとされた。
 日露戦争が勃発すると陸軍では外地に出征した部隊や占領地の警備にあたる部隊を統率する軍司令部がもうけられ、軍司令官の多くは親補とされた。のち満州軍総司令部がさらに上位にもうけられ、大山元帥が総司令官に親補された。
 海軍では複数の艦隊を指揮する聯合艦隊がもうけられ、司令長官は親補とされた。占領した旅順に旅順鎮守府を置き、司令長官を親補した。
 戦争が終結すると臨時編成された部隊の多くは解散または復員したが、占領地の警備にあたる部隊の一部は形を変えて残った。

日露戦後

 日露戦争を経て陸海軍のいろいろな制度整備が進んだ。親補と規定される職もほぼ固定され、陸海軍の統帥部長と教育総監、韓国駐剳軍(のち朝鮮駐剳軍を経て朝鮮軍)司令官や台湾軍司令官・関東軍司令官(いずれも大正中期から)などの外地の軍司令官、師団長、海軍の艦隊司令長官と鎮守府司令長官、陸海軍の軍事参議官と侍従武官長、ほか同等以上の陸海軍大将かある程度の歴をもつ陸海軍中将があてられ、かつ天皇に直隷する職が挙げられる。親補職とされる職の「規模感」のコンセンサスが得られたと考えていいだろう。

 陸軍の師団は戦前の13個から17個に増える。それだけ親補職のポストが増えたことになる。明治末に19個に増え、大正はじめにはさらに21個師団への増強が政治問題化した。この軍拡は第一次大戦中にようやく実現するが陸軍では最終的に25個師団をめざした。
 軍司令部は韓国駐剳軍だけが残ったが、これとは別に親任官である関東都督や台湾総督を陸軍軍人が勤めた。これら武官がつとめた都督・総督はのちに軍事指揮権が分離されて親補職である関東軍司令官・台湾軍司令官に改編された。このほか普段は指揮下に部隊をもたないが非常時に帝都防衛の責任を負う東京衛戍総督が親補職とされた。

 海軍では聯合艦隊は解散され、第一、第二艦隊が常時編成される例となる。大正時代に入って中国大陸方面の警備にあたる第三艦隊が編成されるようになった。同じころ(大正はじめ)から毎年秋に演習のため聯合艦隊を臨時に編成する慣習が生まれたが、第一艦隊司令長官が聯合艦隊司令長官を兼ねたのでポストは増えない。
 鎮守府は横須賀、呉、佐世保、舞鶴の四ヶ所に加え、国外の旅順に旅順鎮守府を置いた。旅順鎮守府は大正時代に格下げされる。

 陸海軍共通の親補職として軍事参議官があった。定数はないが陸海軍のバランスは意識された。侍従武官長は規定の上では陸海軍いずれかから出すことになっていたが、実際には陸軍に限定された。

軍縮時代

 大正時代半ばは第一次大戦にあたり、緩やかなペースではあるが軍拡基調にあった。しかし大正後期に入って第一次大戦が終わり、大戦景気も去って不況が世界を覆うようになると軍事費の圧縮、軍縮が求められるようになる。
 海軍では米英などの列強と軍縮条約を締結して主力艦を削減して新規建造は禁止された。第三艦隊は解散し、舞鶴鎮守府は格下げとなった。

 陸軍では第一次大戦の戦訓にのっとり装備の近代化をめざしたが、そのための軍事費増大などとても受け入れられない社会情勢だった。やむを得ず陸軍では一部の部隊を廃止して捻出した経費を近代化にあてようとし、不本意ながら軍縮を強いられた。はじめは一部の聯隊などが廃止されたが、大正14(1925)年には4個師団が廃止された。17個師団体制は日中戦争まで続く。
 この軍縮のため大正9(1920)年に東京衛戍総督が廃止されたが、大正12(1923)年に関東大震災の発生に伴い戒厳司令部がもうけられ、これを改編した東京警備司令部には親補職である東京警備司令官が置かれた。軍縮期に新設された親補職は珍しい。

軍拡時代

 昭和6(1931)年に関東軍がおこした満州事変が軍拡のきっかけとなる。しかしこの時点では内地の師団が交代で満州に派遣されて関東軍の指揮下に入る形となっており親補職のポストは増えていない。翌年、上海事変が起きると海軍では第三艦隊を再編成して中国大陸に派遣した。
 非常時の掛け声が叫ばれるようになり、かつての都督部の復活のような、防衛司令部が設立されて防衛司令官は親補職とされた。東部防衛司令官は昭和10(1935)年に置かれ、中部、西部防衛司令官の設置は昭和12(1937)年になった。

 昭和11(1936)年には天津に置かれた支那駐屯軍司令官が親補職に格上げされた。同じ年、海軍の舞鶴要港部司令官が親補職とされた。

戦時中

 日中戦争が始まると多数の師団が出征して中国大陸に向かったばかりでなく、特設師団が動員された。さらに戦地でこれらの部隊を統率する軍司令部が複数設立された。親補職である軍司令官や師団長が急増した。海軍では従来の第三艦隊は華中に専念させ、華北を担当する第四艦隊と華南を担当する第五艦隊を新設するとともに、これらを統一指揮する支那方面艦隊を編成した。これらの司令長官は親補職である。

 内地でも体制強化が続きポストは増加をたどる。昭和13(1938)年には陸軍省の外局だった陸軍航空本部を改編して天皇に直隷する陸軍航空総監部とし、親補の陸軍航空総監を置いた。
 同じ年には舞鶴以外の要港部司令官(大湊、鎮海、馬公、旅順)も親補職に格上げされた。舞鶴要港部は翌年鎮守府に格上げされた。要港部司令官が親補職に格上げされた昭和13(1938)年には独立艦隊司令官が親補職となる。実際に該当したのは練習艦隊だが、太平洋戦争直前に解散した。

 昭和15(1940)年、東部、中部、西部防衛司令部をそれぞれ東部軍、中部軍、西部軍に改編してそれぞれ親補の軍司令官を置き、やはり親補の軍管区司令官を兼ねた。翌年には本土防衛を担当する防衛総司令部を置き、親補の防衛総司令官を置いた。

末期

 昭和14(1939)年、中国本土の全陸軍兵力を統率する支那派遣軍総司令部が置かれた。中国大陸にはすでに複数の軍を指揮下にもつ北支那方面軍や中支那派遣軍が置かれており、支那派遣軍ー方面軍ー軍ー師団という階層が成立した。支那派遣軍総司令官は親補とされ陸軍大将があてられた。昭和16(1941)年には南方作戦を担当する南方軍総司令部が設けられた。

 海軍では昭和16(1941)年に要港部が警備府に改編され司令官を司令長官と改称した。本来の警備府とは別に特設部隊である海南警備府が華南海南島の警備と軍政を担当し親補の司令長官を置いた。

 昭和17(1942)年には関東軍が総軍に昇格し司令官が総司令官と改称した。海軍では聯合艦隊の下に方面艦隊がもうけられ、その下の艦隊とで三層構造となった。

 昭和20(1945)年に入るころには本土決戦と対ソ防衛のために根こそぎ動員がおこなわれ、最終的に総計で約170個師団、約50個軍、18個方面軍、5個総軍、約10個飛行師団、5個航空軍、1個航空総軍が編成された。これらの師団長や軍司令官はいずれも親補職であり、希少性は大きく減じた。
 海軍においても約20個艦隊、8個鎮守府・警備府、海上護衛総司令部海軍総隊などが編成され司令長官は親補とされた。

 実戦部隊を除いて終戦時に残っていた親補職は参謀総長、教育総監、軍令部総長、侍従武官長、軍事参議官である。

 明治23(1890)年に参謀総長と監軍の2ポストで始まった親補職は、半世紀あまりのちに300以上に膨れ上がって終焉した。

おわりに

 なんだかんだで親補職というのは軍部においてはステータスでエリートの証でもあり、そのポストの経験者と移り変わりを追っていくだけでもある程度日本軍の歴史がみてとれるような気がします。

 ではもし機会がありましたらまたお会いしましょう。

(カバー画像は現代の親任式)

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