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日本海軍軍人伝

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日本海軍の軍人について
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2023年9月の記事一覧

臨時海軍建築部

臨時海軍建築部

 海軍将官の履歴を見ていると「臨時海軍建築部」という組織をちょくちょく見かけます。「臨時」だし、兼職ばかりで専任者はほとんど見かけず、よくある短期間置かれた限られた任務の組織なんだろうとあまり深く考えずにいたのですが、それにしてはあまりによく見かけるので改めて調べてみたことをまとめました。

舞鶴鎮守府 海軍の地方組織の最上位組織になる鎮守府ははじめ横浜に置かれて東海鎮守府と称したが、日本西部に西

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海軍水路官

海軍水路官

 海軍士官にはかつて水路官、のちに水路科士官と呼ばれた士官がいました。あまり知られていないのは、人数が極端に少なかったからです。

水路部 軍艦に限らず船が航海するときに欠かせない海図を作成しているのは現在の日本では海上保安庁だが、戦前は海軍が担当していた。海図の作成は測量作業と切り離せず、深度や航路、標識を測量して海図に落とし込むという手順が必要になる。幕末に日本を訪れたペリー艦隊は江戸湾の測量

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「陸軍属」と「陸軍軍属」はイコールじゃない

「陸軍属」と「陸軍軍属」はイコールじゃない

 ちょっと前のことですが、親族の軍歴を取り寄せてみたという記事がお勧めに流れてきたので読みました。その記事では陸軍の下士官として勤務したあと除隊して陸軍軍属になった、と記されていました。取り寄せた軍歴が個人情報を隠した形で掲載されていて、確かにそこには「陸軍属」に任じられたと書いてあります。

 おそらく、書かれた方は勘違いしています。「陸軍属」は「陸軍軍属」とはイコールではありません。包含関係で

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海軍軍人伝 大将(17) 井上成美

海軍軍人伝 大将(17) 井上成美

 これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は一応の最終回になり、井上成美をとりあげます。
 前回の記事は以下になります。

イタリア駐在武官 井上成美は明治22(1889)年12月9日に仙台に生まれた。父親はもと幕臣で、維新後に官僚となって宮城県庁に職を得て移り住んだがその後退職している。井上家は子だくさんだったが生活は苦しく、父親から一番上の男子のほかはいい学校

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海軍軍人伝 大将(16) 藤田尚徳

海軍軍人伝 大将(16) 藤田尚徳

 これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は藤田尚徳です。
 前回の記事は以下になります。

海軍省副官 藤田尚徳は明治13(1880)年10月30日に生まれる。父はもと津軽藩士だが東京に移り住んで、藤田は東京府立一中に学んだ。卒業して海軍兵学校に入校したときの記録では藤田は東京府士族とされている。明治34(1901)年12月14日に第29期生115名の15位で卒

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海軍軍人伝 大将(15) 百武三郎

海軍軍人伝 大将(15) 百武三郎

 これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は百武三郎です。
 前回の記事は以下になります。

磐手艦長 百武三郎は明治5(1872)年4月28日に佐賀藩士の家に生まれた。10歳離れた弟に源吾がいる。海軍将校をめざして東京築地の海軍兵学校に首席で入校したのは明治21(1888)年7月14日だった。半月後の8月1日に兵学校は広島県江田島に移転したが校舎などの設備は整っ

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海軍軍人伝 大将(14) 豊田貞次郎

海軍軍人伝 大将(14) 豊田貞次郎

 これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は豊田貞次郎です。
 前回の記事は以下になります。

山城艦長 豊田貞次郎は明治18(1885)年8月7日に紀伊田辺藩士の家に生まれた。田辺藩は御三家の和歌山藩の付家老の家系で徳川時代は将軍の直臣とは扱われず、それが認められたのは明治政府によってであった。海軍兵学校に入校して海軍将校をめざした。在校中に日露戦争が始まり、終

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海軍軍人伝 大将(13) 塚原二四三

海軍軍人伝 大将(13) 塚原二四三

 これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は塚原二四三です。
 前回の記事は以下になります。

臨時航空術講習部部員 塚原二四三は明治20(1887)年4月3日に福井県で生まれた。本籍のある山梨県で育ち、甲府中学に学んだあと、日露戦争が終わった直後の海軍兵学校に入校した。明治41(1908)年11月21日に第36期生191名中20位で卒業した。この中には卒業前に病

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