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【第6回】自粛が明けて、通勤時間が貴重な「一人」体験であることに気付く

Withコロナ生活が始まってから(それを3月からと考えると)、5ヶ月目に突入したということになる。とはいえ、5月下旬にいわゆる「自粛」が解けたことによって、僕にとってはここ1ヶ月くらいの生活と、その前の生活とは厳密には異なる。

 

自粛期間中は「週に2回」会社に行けばよかったが、今は時差出勤ではあるが「週に5回」普通に会社に出ているからだ。(出版業界というのはおしなべて古風なのである)


その自粛中と自粛後を比べて感じたことは、自粛による「在宅ワーク中心の生活」よりも、自粛が解けた後の「会社勤務中心の生活」のほうが、自分には向いているということだ。


誤解のないように言っておくと、それは仕事の「進め方」とか「充実度」とかの問題では全くない。その事実に自分でもびっくりしているのだが、僕にとっては「片道約1時間の通勤」が、意外にも大事な時間であったということに気付いたのだ。


通勤は、「移動の時間」であると同時に「一人になれる時間」でもある。


僕はその時間で音楽やラジオを聴いたり、本を読んだり、あるいはゲームをプレイしたり(最近はもっぱら任天堂Switchだ)、また時にはボーっと窓の景色を眺めたり、物思いにふけったりもする。電車に乗っている時間だけでなく、駅に向かって歩いている時間、乗り換えで次の電車を待っている時間も、僕にはきっと「意味」のある時間だったのだ。


それは何かを「リセットする」時間であり、「休憩」の時間でもあり、あるいは次の行動を「準備する」時間でもあれば、「思考を異次元に飛ばす」時間でもあった。それは「移動する」という運動(movement)と共に、「一人」でしか謳歌できない貴重な体験だったのである。


そう、在宅ワークにはこの「時間」が失われていることに、僕は気付いてしまったのだ。


日本のサラリーマンの誰もが嫌がる通勤。僕もそうだった。しかし、妻子4人と一緒に暮らす僕にとって、「一人で移動する」という時間とその体験には、確かに意味があったのである。自粛生活がなければたぶん、そのことに気付くことはなかっただろう。

また近頃、首都圏の新型コロナ感染者が増えているが、2回目の自粛生活が始まるのだろうか。通勤時間の大切さを噛みしめるために、僕は今日もiPodに新しい音楽とPodcastをダウンロードし、何冊かの文庫本と任天堂Switchライトを鞄に詰め込むのである。




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