死から見る時、自分の使命について。
毎日世界のどこかでコロナで死にたくもないのに誰かが亡くなるような時代の今。
このタイミングでこんなことを語るようなのはまずいのかもしれないけど。。
死と生は表裏一体で。
わたしはモチベーションをあげるために、たまに勇気を出したいためにこの言葉を持ち出すときがある。
どうせ死ぬんだから
恥ずかしいけど想いを伝えたい時、ものすごい勇気を必要とする時。どうせ死ぬんだから大丈夫、言わなければ後悔する、告白しよう、、、
やったことないことを始めたいけど勇気が出せない時。どうせ死ぬんだから、人目なんか関係ないない、今やりたいんだからやってみよう、、、
そう思うと、なんかダメでも大丈夫なような気がして。一度しか人生ないんだからと思えてくるから、人生最大の勇気を振り絞るときにこの言葉をに使ってきた。
逆に、「大丈夫、死にはしないから。」と言いきかせることもある。
・死ぬわけじゃないから大丈夫と思うことで安寧をはかる方法。
・死を近づけて勇気を出す方法。
二つの方法をそんな理由のためだけに持ち出すのはあまりにも都合が良すぎると自分でも思う。でも誰でも一度は考えたことある?のかもしれないね。
私は超ネガティブなので、毎度その発想の転換もできるわけなく、毎日死生観にかられているわけでも死をものすごく恐れているわけでもなく。
むしろ、なんで生まれてきたんだろ、死ねたらいいのにと思う日も年に数回はあるなかで、何のために人って生きるんだろ。。。に対する自問自答を30年間繰り返してきた。
だけど最近、なんとなくわかってきた気がした。
なんのために生まれてきて死ぬのか。
これはあくまで私が個人的に思うことだけれど、人は何かを学ぶために生まれてくるのだと思う。それぞれの使命を持って。
私の使命ってなんなのかって言われてもハッキリまだ答えられる自信ないけど。。。まぁでもそんなのに正解もないと思うし、もしかしたら見つけ出すこと自体が使命なのかもしれない。
ここ数年、嫌でも自分と向き合って見つめ直さなければならない苦しい出来事が多かった。
その流れのなかで再確認したことは、趣味を含め、私は人のために何かをすることが好きで、誰かに何かをすることや、誰かのためになれたことに生きがいや喜びを感じるということ。実際、自分が主役じゃなくて誰かをサポートすることが多かったし、仕事などでもそれがあってる。
そして今までの人生色々なことがあり、喜怒哀楽した経験のなかでとくに傷ついた体験から学んだことは誰よりも多くあると思う。感受性が強く、超ネガティブで繊細だからこそ、私だけが感じ取ることのできたこともあると思う。
なんせイジメなどで普通の人が言われもしない言葉の数々や境遇を受けてきたんだから。そのぶん、人や学校、社会、世の中に対する不条理、どうしようもない思い、不満を人一倍抱えてきた。
その傷のなかで生まれた気持ち、考えたこと、見つけた愛や学びを第三者に伝えたり、共有したり、同じような経験をした人や同じ境遇で悩んでいる人に寄り添うことなのかもしれないって。
noteを初めたきっかけは自分を振り返りたいという気持ちからだけでなく、こういった思いもあるから。ここで、書いたり届けたりすることも含め(そういう対象の人が読んでくれてるかわからないけど)
見えない場所で誰かを陰ながらサポートするようなスピリチュアル的な意味合いも含め、わたしはそのためにこの世に生まれてきたのかもしれないということ。そういうことを最近、思ってきた。
それが私の見つけた、私の使命。
今までの苦しみがあったのは、そのために天が試練や学びを与えたんだと思いたい。
自分の過去においては戻りたいと言えるくらい美しい思いを持つ人とそうじゃない人がいると思う。わたしは戻りたくない時期の方が長い。
でも今は落ち着いた気持ちで、全て意味のあることでその経験すべてが今の自分を形成していて、色々あったからこそ彩りのある人生なんだなと思えるようになってきてる。
実際自己肯定感のあげ方も見出したし、自分も好きになってきてるし。
こういう考えにたどり着けたことは自分が成長したからかな。
最終的に、私が私でよかったと思えて死にたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?