『文豪、社長になる』

門井慶喜さんの作品。

『文藝春秋』を創刊し、作家だけでなく社長としても活躍した菊池寛の物語。


芥川龍之介が「菊池ひろし」と呼び続けた理由について、芥川なりの菊池寛に対する敬意だと思いたい。

直木三十五の埋草があまりにも攻めすぎていて、とてもおもしろいと感じた。

菊池寛と石井桃子に関わりがあったことを知らなかった。


印象に残っている文

一種の成長拒否症だろう。これで六年間に四つの学校を中退したわけで、われながら堪え性がないというより乱心である。

「菊池君。ジャーナリズムの妙諦はね、読書の意表をつくことですよ。三人殺した犯人が子供のころから暴れん坊でしたっていうんじゃあ当たり前です。むしろ虫も殺せない優しい子でしたっていうほうが読者はよろこぶ。頭に残るんです。まあ新聞じゃあ話をこしらえるわけにはいきませんが」

いや、三年前より痩せている。たしか目方は十三貫を切ったと人づてに聞いたから、四十キログラム台である。

なおこの当時の講演会というのは、現代とはちがい、聞くほうにとっては一日がかりの娯楽である。講師がひとりというのは例外的で、ふつうは暫時の休憩を入れつつ三人や四人がつづけて話す。

埋草というのは雑誌の誌面にやむなく生じる余白を文字どおり「埋める」雑文のことである。たいてい無署名または匿名で書かれ、書いたところで筆者の業績にはならない。

「あんたこそ、不機嫌だと極端にしゃべらんようになるらしいな。うまいこと言うやつがいたよ。あれは菊池寛じゃない、クチキカン(口利かん)だとさ」

女がかしこぶって眼鏡などかけるものではない、生意気だと思われて嫁のもらい手がなくなるというのは、この時代、世間の一般的な感覚だったのである。

「鮨は米のうちに入らないよ。酢がふってあるから贅肉にならないんだ」


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