『なかなか暮れない夏の夕暮れ』

江國香織さんの作品。

北欧のミステリと日本で暮らす稔、稔を取り巻く人々のことを描いた物語である。


稔が読書ばかりしていて、本当に読書好きな人だと感じた。

「蹠」と書いて「あしのうら」と読むことを初めて知った。

過去に矯正をしたことがあるので、大竹が矯正をして話しにくくなる感じがよく分かった。

物語の最後の稔の行動が、とても彼らしいと感じた。


印象に残っている文

空はもう、夜の一歩手前の色をしている。

チーズなら無難だから。その言葉が、すっかり胸にしみていた。こういうことが、稔にはときどきあった。何の変哲もない言葉に、いきなり気持ちのどこかを鷲掴みにされる。かわいい発言だと思った。かわいくていじましい。

「わかりました。じゃあ、せめて手を洗って行ってください」これも母親の教えだった。埃っぽい外を歩いて、冬なら寒いなかを、夏なら暑いなかを、いらしたお客様が急いで帰られるときは、手だけでも洗っていただきなさい。昔はお風呂をさしあげたものよ、ママが子供のころにはね。でも、手を洗うだけでもとてもさっぱりするものよ。

こんなふうに、手をべたべたにしなければソフトクリームがたべられなかったころが自分にもあったことを、稔は覚えている。しかし、いつから手や顔や服を汚さずにたべられるようになったのかは思いだせなかった。

これは例の瞬間なのだ。多くの人たちが、“ありふれた、でもかけがえのない”と形容する家族の瞬間、ずっとあとになって、失われてはじめて“あのときは幸福だった”とわかる類の瞬間だ。それなのになぜ、ときどき自分は逃げたしたくなるのだろう。

誰かを好きになると、人は奇妙な人格崩壊を起すことがある。突然ヴェジタリアンになったり、それまでとは違うタイプの服や靴や下着を買い込んだり、自転車通勤を始めたり、いきなりワイン通になったり、支持政党が変ったりーー。

散髪直後の男の人が、普段より子供っぽく見えるのはどうしてだろう。

「呼んだかな?」そして囁く。「いやな奴」毒づいたが、言葉を裏切って全身がスコットを味わってしまう。

夫婦というのはグロテスクだ。結婚して以来何度も考えたことを、渚はまた考えてしまう。互いに相手の考えていることがわからなくても、それどころか、相手の存在を疎ましく感じるときでさえ、夜になれば一緒に眠り、朝になればおなじテーブルにつく。小さな不快さも言葉のすれちがいも、何一つ解決されないまま日々のなかに埋もれ、夜と朝がくり返され、夫婦以外の誰とも共有できない何かになってしまう。世間では、それを絆と呼ぶのだろう。だから、絆というのは日々の小さな不快さの積み重ねのことだ。

ベンジャミンと会っていようが寝ていようが、ラウラはこの世のいいもののすべてだ。目の前の海みたいに豊かで、どこまでもひろがる夏空みたいにあかるく、子猫みたいにやわらかい。マドンナみたいにセクシーで、ブルース・スプリングスティーンみたいにイカしていて、エアロスミスみたいにゴキゲンだ。

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