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震災にあった、とまでは言えない北陸地元民の帰省正月について書いてみる。 疾風怒濤編

えー、「被災しました」とまでは言えない程度に被災っぽい目に遭いました。
当方、富山出身の現関西民で、年末年始例によって富山市内の実家に帰省してた民です。

後述する通り、1/1当日の夜に避難所から帰宅してるし、実害は精々屋内の家具が落ちたり倒れたり散乱した程度で、後片付けも2日の午前中には終わってて、ぶっちゃけ「被災」と言える程度ではないのが正直な所なんですが、まあそれでも色々大変だったし、勉強になった所も多大にある今回の帰省だったので、その辺自分の備忘録も含めて色々と語ってこうと思います。

の前に、最初にちょっと登場人物(?)というか、家族構成と現況について簡単に列記しとくんですが

筆者 関西在住で年末年始に帰省

父 富山市内の実家に母と2人暮らし

姉一家:姉、旦那(義兄)、甥、姪
  実家宅から車で15分程度の距離

祖母 母方。実家宅から徒歩数分の木造築60年の家に一人暮らし

母 県外で入院中の弟に「お正月に病院で1人可哀想だから」と付き添いで実家宅不在


当日 1/1

その時は自室で布団に寝っ転がってダラダラとスマホ見てるっていう典型的な寝正月モード。70歳ちょいの父親と7歳の甥っ子がちょうど犬の散歩に出かけた直後で、家の中は自分1人という状況。
揺れ始めた瞬間は「おっ」ってくらいだったのが、数秒で「ヤバい!」となる揺れに変わっていく。
ヤバいと思って立ち上がるも、今すぐ玄関にダッシュして向かいにある広めの月極駐車場に逃げるか、真横のテーブルの中に潜り込むかの2択に多分2、3秒迷ったと思う。

結局後者を選んだ訳だが、長めの横揺れが続く中(ニュースによると1分半ほどの揺れだったらしい)、棚から物が落ちる音を聞きながら、自分でもよく分からんが急にスッと冷めた気持ちになって

「これで家ごと潰れて生き埋めになったら、人生最大の博打に負けたことになるな」

と苦笑いが浮かび始める。
去年は秋口から馬券も負け続けだったので「最後がコレならひでえオチだな」と。
どうにもならん時に意外と死の覚悟(みたいなもの)がスッとついちゃう瞬間ってあるんだな。初めて知った。

揺れが収まって家に出ると、父親と甥っ子とわんこが向かいの駐車場に。
合流した直後に余震が来て一旦屋外で数分様子見することにするが、ここでようやく一人暮らし中の母方の祖母の存在に思いが至る。
実家から徒歩数分程度の場所だが、築60年は経つ木造家屋だ。30年ほど前に一応リフォームで多少の外壁補強はしているが、それこそ震度7くらいの地震が来れば相当に危ない。
父親たちと別れてとりあえず祖母宅へと1人で向かう。

祖母宅に着くと、中では祖母が割れた食器やら何やらを片付けている真っ最中だった。
余震の危険性を説いてとりあえずこっちの家に来るよう伝えるが、ここで若干渋られる。
筆者の家族らは毎年元日は祖母宅にてお節料理に加えて、バカ高い牛肉でしゃぶしゃぶを囲むのが恒例となっている。この日も当然その予定で居間ではその準備が既に整っていた。
どうも祖母は、予定通り滞りなく食事会を行うために片付けをしているらしいことが会話の中で判明する。

この時点で私の脳内に「これが正常性バイアス……!」という言葉が走っていた訳だが、とにもかくにも「一旦家に来い」と強めに説得して何とか祖母を連れ出す。
祖母を連れて実家に戻ると、リビングでテレビを見ている甥と、誰かと電話している父親。
テレビは当然臨時の災害ニュース。そこで初めて能登の方の地震だと知る。
テレビ画面は「津波!逃げて!」とデカデカと赤字で表示され、アナウンサーも切迫した声で叫んでいる。富山市にも津波警報が出ている。

この時、いろいろと考えてたことはあったが、頭の片隅で思ってたのは「平成の大合併なぁ」だった。

富山市は2005年に周囲の市町村とかなり大規模な合併をした結果、現在では県内の3分の1近い面積にまで広がっている。
そのせいで市町村単位での警報に対して「で、実際どこまで危ないの?」と市民が判断に窮するのだ。
現富山市は海に面した平野部の旧富山市域から飛騨山脈をガッツリ含む県境の旧大山町まで伸びており、海抜0mから3000m弱という標高の違いが1つの市に収まっているので、特に今回のような津波警報の場合、「絶対うちは関係無いよな」と断言可能な住民がかなりの数存在する。
そこがひっくるめて「富山市」扱いされているので、市町村単位で発令される警報や注意報に対して「旧区分で教えてくれ〜」となるのだ。

富山市公式webページより https://www.city.toyama.lg.jp/

まあうちの実家は元々旧富山市だったのでどっちにしろ同じことだったし、言うて津波警報なら旧富山市以外は海岸線からかなり離れているのでそこまで関係無いと言えば関係無い。
ただ、実際問題として県内で人と喋ってて地理的な話題になった際には基本的に皆旧区分で話すし、体感で言えば合併から既に20年近く経つ今でも旧市外の住民に「富山市民」という自意識はほとんど定着していない。
将来的に何かしらの災害時に住民の判断を誤らせる可能性が結構あるんじゃないかと不安になる所ではある。

閑話休題。

前述の通り、実家は海岸沿いの平野部の旧富山市にある。
とは言え住所は富山駅以南で海岸からは10km以上。大津波は河川を逆流し海岸から遠い地域でも被害がありうるという話もあるが、この時期の元々の水量からして神通川や常願寺川の堤防がどうこうなるとは流石に考えづらい。テレビ画面の津波警報には「高さ3m」と表示されている。
9部9厘ここは安全だろうとは思う。とは思うが……。

本題に戻った直後に再び即脱線するが、神通川と常願寺川は富山七大河川のうち、旧富山市街を流れる2本の水系であり、旧富山市に該当する県中枢がほぼほぼこの2河川の間に挟まれた扇状地に属する。
これら2河川は2000mを超す北アルプスの山々から、狭い県内を通って一気に富山湾まで流れ込むため、大雨や台風による増水時には平野部であっても激流を成し、古くから甚大な水害をもたらしてきた歴史がある。
特に常願寺川は水源標高2600mに対し河川長50数kmと非常に短く、一級河川の中で日本一の急勾配を有する。
明治時代に行われた治水工事の際に政府から派遣されたオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケが、常願寺川を称して「これは川ではない。滝だ」と発言したという言い伝えが残っている(ただし実際には史実ではなく、別の外国人技師による富山県内の別の河川に対する発言が混同されたことが現在は判明している)。

国交省 立山砂防事務所Webページより https://www.hrr.mlit.go.jp/tateyama/jigyo/tokucho.html

そのためこれら2河川については大規模かつ長い年月をかけた治水工事の歴史がある。
水量の少ない時期には精々50~100m程度の川幅であるにも関わらず、両岸の堤防間の距離が500m近く離れており、非常に巨大なマージンがとられていることが下の写真からも端的に分かる。

国交省Webページより https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0410_joganji/0410_joganji_01.html

その甲斐もあって近代では何人もの死者が出るような大水害はほとんど発生していない。富山市民の両河川堤防に対する信頼は厚い。
逆に言えば、両河川の堤防が同時に決壊するような大洪水がもし起きようものなら、県中枢である旧富山市のほぼ全域が壊滅的被害にあうことが予想されている訳だが、そのような事態が今後も起きないことを祈るばかりである。

閑話休題。

テレビ画面を見ながら、これからどう動くべきか考えてると、父親からスマホを渡される。
通話先は東京に住む叔父で、安否確認の連絡だったらしい。
で、出てみて第一声が

「おー、大変そうだな。最近仕事の方はどうだ?」

今!? する話か!?!?

どうも父親は私が祖母を連れてきてる間に「避難の必要は無し」と判断して、電話口でとっくに世間話モードになっていたらしい。
「正常性バイアス……!」とまたも脳裏を過った訳だが、それによって逆に私自身は危機感が増し、叔父からの電話は一旦打ち切って「とりあえず避難所に移動しよう」と提案。
避難所は家から徒歩数分の小学校で、数年前に竣工したての4階建て新校舎がある。津波にしろ地震にしろ、大概のことは大丈夫のはずだ。
荷物をまとめて移動するくらい大した手間じゃない。迷った時は多少の面倒は飲み込んで安全側に振れば良い。

が、ここで父親がまた渋る。
曰く、

「どうせ避難所も体育館だし、津波が来たとして、そこから大勢で上の階に登るのと、家から避難所に向かうのとで大して時間に違いは無いだろ」

まあ話の筋自体は通っている。だが、私は父と危機意識がイマイチ共有できてない雰囲気がとにかく不安だった。
とは言えここで押し問答をしていてもどうにかなるもんでもない。姉とも連絡が取れて姉夫婦一家が小一時間で一旦我が家に来るとのこと。
とりあえず父親は彼女らに任せることにして、84歳の祖母と7歳の甥を連れて避難所へと移動した。

小学校体育館の避難所では特に特筆するようなことは何も起きなかったが、とにかく災害の全体像も分からなければ、今後どれくらいの余震が発生しうるのかも見当がつかない。
自分自身いつまでここにいれば良いのかがイマイチ判断つかない。
そんな状況の中で
「あんたらはここにおれば良いから私は家帰るわ」
「全部出しっぱなしだし片付けもしとらんし」
と20分おきくらいに1人で自宅に帰ろうとする祖母をその度に宥めるという時間が続く。

とにかく「予定通りの日常(と同時に1年に1度の家族が揃う慶事)」に戻ろう戻ろうとする祖母のメンタリティにどう対応すべきかが分からない。
毒気の無い表情で「そろそろ帰らんけ?」と言われると、ウッカリすると自分もそちら側に飲み込まれそうになる。
流石にここで夜を明かす必要までは無いように思う。が、かと言っていつなら帰っても良さそうかの判断基準が無い。
結局この避難所にいたのは18:30頃までだったので、精々待機時間は2時間弱程度だった訳だが、後から考えてみると一番しんどかったのはこの時間だったように思う。

帰宅を決めたのは、町内会長からのアナウンスで「市から避難勧告は無いので今ここにいるのはあくまで自主避難中」というのを聞いてだった。
まあそれなら徒歩数分程度の自宅には帰っても良いか、と判断した訳だが、今から思うと自分自身「それなら帰宅しても良い」という判断の根拠になる情報をとにかく入手しようとしていただけだったようにも思う。

とにもかくにも自宅に戻り、ここで初めて、私、父、姉夫婦、甥、姪、祖母の、元々元日の夜に集まる予定だったフルメンツが揃う。
繰り返しになるが、元々この日は夜に家族一同で祖母宅に集まって豪勢な食事を囲む予定だった。
これも前述の通りだが、祖母宅は築60年木造住宅だ。
余震も続く中なので、用意していた料理をこちらの家に移動させて皆で食事をとる。ただし、お節とは別に用意してたしゃぶしゃぶに関しては鍋が危険なので明日以降に変更。この辺の話し合いの際にも、イマイチ危機感が感じられない父親と祖母とにモヤっとした気分になったり。

また、避難所から帰宅して食事をとるまでの間にこんな一幕もあった。
防災カバンの有無について父に尋ねると、「多分無い」との返答。
「多分」てなんやねんと思いつつ、最悪いつでも避難所生活に移行できるよう大きめのバッグに必要最低限のものは詰め込むことを提案する。
が、いざ用意するとなって、とにかく父親が家の中のどこに何が置いてあるのかを全く把握していないことがはっきりと分かる。
冒頭で記載した通り、本来実家を取り仕切っている母親が今回の年末年始に限って、県外の弟の所に滞在中なのである。
最終的には母親に電話し、電話越しに飲料水、保存食、非常用使い捨てトイレ等の防災グッズの在処を聞き出すという羽目になった。

食事の後、姉貴一家は帰宅。
祖母を祖母宅に一人にはさせないようにして、4日くらいまでは余震の様子見しつつ家に泊まってもらうことに決定。
とりあえず新年のご馳走にはありつけて、暖かい布団でも寝れることには天に感謝しつつ、長い半日がようやく終わる。


翌日 1/2

夜中に余震で何度か眠りを邪魔されつつ、8:30頃に目を覚ます。
祖母を泊めた部屋の戸を開けると既に起床済みの模様。で、リビングに行くがそこには父1人。
祖母の所在を尋ねると

「朝早くに家片付けるって言って出てかれたみたいだわ」

何で家に泊まって貰うことにしたのかの理由を全く理解していなかったとしか思えない発言に朝っぱらから起き抜けにブチ切れそうになるが、グッと堪えて

「俺も向こうの家行ってくるわ」

と返し、急いで着替えて祖母宅へと向かう。
祖母宅は昨日の散乱が嘘のようにほぼほぼ片付いていた。
聞けば6時過ぎ頃には起きてこっちに来てたらしい。

「みんな寝とって悪いからそーっと出て来たん」

と全く悪気無い笑顔で言う。
朝1で昨日からの累積で徒労感がピークに達したのを感じつつ、どれだけの規模の余震が起きるか分からないので頼むから一人でこっちの家に長い時間いるのはやめて欲しいことと、自分はこの帰省中に特段予定無いので、もしこっちの家に用が出来たら声かけてくれたらついていくということを、どうにかこうにか説明する。

「そうけ? でも悪いわあ」

なんかもう、全く響いてない感じの返答。このタイミングで1つ決心をする。

元々本来自分が富山に滞在するのはこの日の夕方までの予定だった。新幹線と特急の切符も既に購入済みだ。
が、この日の朝の父親と祖母の様子を見て、前日から続く信用できなさに滞在日数を伸ばすことを決意する。
県外の弟のもとにいる母親が帰ってくるのが4日の昼の予定だったので、そこまでは富山に留まることに。

祖母宅の片付けの最後少しを手伝ったのち、祖母が昨日できなかった初詣をしたがったので、近所の神社にお参りに行く。
そのまま私の方の自宅へと祖母を連れて帰宅。父親に4日まで滞在を伸ばすことを報告する。
このタイミングで父親に対し「向こう数日くらいはもう少し危機意識を高めにもって生活しないとダメだ」という話をするが、軽く口論に発展する。体感的には暖簾に腕押しといったところで、この時の詳細については次の記事で多少深掘りすることにする。


という訳でその後、4日の昼まで富山にいた訳なんですが、これ以降は幸い特筆すべきようなことは何も無かったので、「震災にあった、とまでは言えない北陸地元民の帰省正月について書いてみる。」のタイトル的に語るべきことは大体この辺で終了。

ただ、単なる時系列メモだけでなく、この記事を書く中で色々と考えたことや整理できたこともあったので、次の記事ではもうちょい一般論的な話をまとめておこうと思います。
という訳で次回に続く。(数日中には)

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