人生の色々な分岐を振り返る

あの時、あの瞬間に、別の道を選んでいたら、なんて考えることありますよね。果たしてあの時、別の選択をしていたら、今の私は存在しうるのだろうか。考えるたびに不思議な気持ちになります。

何となく、この感覚を言葉として残してみたくなったので、
今日は、これまであった色々な分岐を振り返ってみたいと思います。


小学校のとき、金管バンド部に入ったこと

なぜ入ったのかは覚えていません。ですが、小学校生活のすべてをかけて打ちこんだ活動でした。途中で、先生の意向でマーチングバンド部に変わってから、練習はとてもハードになり、最終的に日本で一番のマーチングバンドになるまで成長しました。何となく、自分のアイデンティティは、この時形成されたのではないかなと思っています。

中学受験をしたこと

金管バンドに打ち込んでいた裏で、中学受験をしました。
とにかく理科が好きで、理科年表を買って眺めていたりしている、奇抜な小学生でした。田舎だったので、普通は何も考えずに公立の中学に進むのですが、私にとってはそれが気持ち悪くて仕方がなくて、自然と中学受験を選んだように思います。当時は、相当な過密スケジュールでした。金管バンドの練習終わりに塾に通い、夜も遅くまで勉強して、寝て起きたら朝練があって、学校が終われば金管の練習、みたいな生活の繰り返しでした。

あの時中学受験をして、あの町を出ていなかったら、いまの私はなかったろうと思います。それほど、私の人生にとって大きな分岐でした。

選んだ自分に、そしてそれを支えてくれた両親に感謝しています。

高校でバレーボール部に入ったこと

実は、これが結構な分岐点だったように思います。
もちろん、私はバレーボール選手ではありませんし、スポーツを生業としているわけでもありません。ですが、バレーボール部に入ったことで、確かに中学から引きずってきた堕落から抜け出せたのです。

中学時代は本当に暗黒でした。せっかく第一志望の中高一貫校に入れたのに、勉強ではついていけなくなり、部活選びも間違え、半ばぐれるようになり、いくつかの悪事を働きました。

高校もこんな生活が続くのか、と暗い気持ちになっていた時、バレー部の友人から、部員が少なくて困っているから一度見学に来ないか、と誘われました。これはチャンスだと思い、迷わず選びました。

そこから、ちょっとずつ色々なことが順調に進むようになりました。
家族や友人との関係も、恋愛も勉強も、ちょっとずつですが、ましになっていきました。

はたから見れば、バレーボール部に入ったことと、生活が上手くいくようになったことに、直接の因果関係があるようには思えないでしょう。

ですが、私の中では確かに因果があるように思えてならないのです。
もし、あの時友人の誘いから逃げていたら、変わることから逃げていたら、そう思うといまでもぞっとします。

高1の時に古典だけめちゃくちゃ成績が上がったこと

バレー部に入ってから、生活も規則正しくなり、人間関係も含めて色々なことが上手くいくようになりました。

ただ、唯一勉強の遅れだけは、なかなか取り戻せませんでした。

小学生時代には楽しかった勉強も、何が楽しいのかわからなくなっていました。そんな中、本当にたまたま、古典の授業だけ成績が上がったのです。

成績が上がったことで、あれ?勉強って面白かったかも?と思うようになってきました。楽しくなってしまえば早いもので、古典だけ異常に勉強するようになりました。段々と古文の意味が分かるようになり、さらに成績は上がっていきました。

そこからはスタディーズ・ハイ状態で、他の教科を勉強することも楽しくなっていきました。

最後まで、理系分野だけはついていけなかったのですが、文系分野の成績はメキメキ上がっていき、難関私大を目指せるようになりました。

第一志望の大学に入れたこと

これは言わずもがなとても大きな分岐です。
ただ、この結果には、高校でバレー部に入ったことや、古典の成績が良かったことが確実に影響していると思うのです。カオス理論的で面白いですよね。

大学2年の時に、パフォーマンスサークルに入ったこと

高校でバレーボールをやっていたので、何となくの流れでとりあえずバレーボールサークルに入りました。それなりに友達はできて、ザ・大学生的な生活を送っていたのですが、同時になんとなく物足りなさを感じていました。

そんなとき、とあるパフォーマンスサークルが目に留まりました。掃除用品を使って音楽を奏でるサークルでした。見つけた瞬間に幹事長にメールを投げ、翌週には練習を見学に行きました。練習後、すぐに入会しました。

そこから、とにかく毎日が楽しかった…

そういう変わったサークルに入るくらいですから、メンバーもなかなかに尖っていました。絡んでいて楽しかったし、なによりそんなメンバーたちと一緒に、人前で表現をすることが本当に嬉しかったです。

あの時、ありきたりな日常に疑問を持てて良かった。
行動ができて良かった、本当にそう思います。

大学3年で、(勘で)新任の教授のゼミに入ったこと

私の大学は3年次にゼミに入るのですが、ゼミに入るまでの競争がとてつもなく激しかったのです。
私は競争で精神をすり減らすのが嫌だったので、本当に何となく、来年度に新しく来るらしい教授の話を聞きに行き、何だか波長が合いそうだな、くらいの感じで適当に応募しました。

新年度ゼミに入ったら、同期が誰もいなかったことは、今でも忘れられません(笑)

ただ、間違いなく、この分岐が私の研究人生を大きく左右したように思います。

大学4年の時に、就活をやめ、大学院を目指したこと

ゼミ生がだれもいなかったこともあり、教授は手厚く研究指導をしてくれました。勉強とは異なり、新しいことを考え続ける研究のプロセスが新鮮に思えました。

ただ、当時は先輩がいなかったこともあり、大学院に進む、という将来は全くイメージできていませんでした。

なので普通に就活をしました。広告会社なんてかっこよいのでは?みたいなありがちな感覚で、ステータスだけにこだわる、つまらない就活でした。

そんななか、並行してやっていた実験をとても楽しく感じ始めていました。
毎日が新しいことの発見で、泥臭くはありつつも、このプロセス自体が何とも幸せでした。

気づけば、順調に進んでいた就活を辞め、大学院入試の準備を始めていました。それも、この時にはすでに、博士後期課程まで進む決意までしていました(なぜ修士まで、という考えがなかったのかはなぞです笑)。

もちろん、両親には猛反対されました。
涙ながらに研究の面白さを伝え、何とかわかってもらいました。とても心配をかけてように思います。本当に感謝しています。

もし、あのまま就活を続けていたら、つまらない価値観をもったまま、つまらない人生に送っていたと思います。自分の人生がつまらないことにさえ気づけなったことでしょう。

それほど大学院への進学は、私の価値観に大きな恩恵を与えてくれました。

博士後期2年の終わり、就活をはじめたこと

これは最近の大きな分岐でした。

文系大学院生の進路はとても狭いです。多くは大学教員を目指しますが、ポストが空くかどうかはタイミング次第で、自分の能力だけではどうしようもない問題です。

自分の将来が運に左右されるのが、どうしようもなく嫌でした。

そこで、自分の能力が活かせる場所は大学以外にないのか、ということを考えるようになりました。

いくつかの企業の方に話を伺い、意外と自分の培ってきた能力の需要があることがわかりました。とにかく分析がやりたかったので、そのノウハウが一番効率よく身に着けられそうな、今の会社を選びました。

結局、博士課程の3年間では博士号を取得することができなかったのですが、働きながら博士号を取得することを会社が認めてくれたので、いまは大学に籍を残しながら、データサイエンティストをしています。

今回の選択が、未来の自分にどのような影響を与えるかは全く見当もつきません。未来はどんなふうに変わったでしょうか。

もしかしたら、バレー部に入ったことや、古典の成績が上がった時のことのように、思いもよらぬ形で、人生を豊かにしてくれるかもしれません。そんな選択であったら嬉しいです。

たまにこうやって振り返ってみると、何だか楽しいものですね。

結局、掃き溜めみたいな文章になってしまいました(笑)

最後までお付き合いくださりありがとうございました。

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