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【ブルアカ】青春青春青春青春青春青春青春青春青春青春青春【-ive a LIVE!シナリオ解体】

前書き

キヴォトス住民の日常には常に火器がついてまわる。そしてキヴォトスの生徒らは銃火器に耐えうる耐久力を持っているからこそ、誰もが平気で他者へ銃弾を浴びせるし、それを異なこととは思わない。

その時点で彼女らの青春は、彼女ら独特の価値観のもとで形成され、それは我々ユーザの価値観とかけ離れたものになっている。

つまりは「非日常」。それを容易に演出できるからこそ、翻して「日常」ひいては「ありふれた青春」というのもを演出しにくくなっている。

無論、それはブルアカの独特な世界観の形成に繋がる強みであるから、他コンテンツとの差別点として利点である。加えてユーザもその「非日常」を摂取しに来ているのだから何ら問題はない。

しかし前述した通り、その利点が我々と価値観を共有できる「ありふれた青春」という演出を悉く阻んでいる。とことん描きにくいのだ。銃火器の介在する日常をごく普通の日常として描くのは難しい。

それに描かなくても構わないのだ。確かに見てみたい気持ちはあるが、我々と価値観の共有できる青春がユーザの需要と必ずしも一致するとは限らないし、それを何度も演出してしまうと折角の差別点が薄れてしまう。

それにこの物騒な世界観を存分に使い、少し倫理の欠如したトラブルに対処するキャラクターという構図がブルアカにおいては最も面白い展開なので、基本的にはその構図を演出することになるし、ユーザもそれを求めている。

しかし(何度も言って申し訳ないが)それ故に普通の青春を描ける隙間が無い。
ユーザにとっての非日常こそが、彼女らにとっての日常であり、それは我々の常識と交わらない線と線で並行して進むのが当然だからだ。

ユーザと価値観を共有できる日常があったとしてもそれはひと匙のスパイス程度で、感情移入の動線くらいにしか使われないし、非日常を主戦場とするブルアカにおいてはそれが正解だ。

だというのに、今回のイベントでは悉くユーザと価値観を共有できる青春物語を堂々と打ち出してきたのだから本当に困った。凄すぎる。天才。バケモンかよ。お前は本当に何でもできるな。

シナリオ解体

解体と書くと聞こえがあまり良くないが、要はただの感想だ。
このシナリオは導入からして素晴らしい。

列車に揺られるアイリは、友人から問われる。

「本当にこのままでいいの?」

それはトリニティ謝肉祭(これ本当に正式名称か?)で部活として催す出し物にもう一声強みが欲しいのではないか、という意味で友人から発せられている。ただスイーツを供するだけではなく、他に異色の何かを付け加えてもいいのでは、という以上の意図は込められていない。

しかし平時から自己肯定感の低いアイリには、全く別の意として汲み取られる。
「(お前は/アイリは)本当にこのままではいいの?」
という自問自答に(言うまでもないが)置換されているのだ。

アイリは自責の念を抱えたまま帰路を歩くが、路上で演奏する他学園の生徒を見てふと思いつく。

「バンドをやってみよう」

唐突ではあるが頷ける流れだ。

自己肯定感が低く、これといった取り柄もない、(本人曰く)特徴もない。
だからずっと他人に誇れる何かが欲しかった。

友人からの何気ない一言さえも自責に置換するほど懊悩していたアイリからすれば、何も唐突なことではない。この暗闇の境地から抜け出したい、と深層心理の奥底では常に考えていたことなのだろう。
そこから抜け出すための契機をバンド活動に見出したのだ。

暗く落ち込むアイリの間接的な描写から転じて、路上の演奏に感銘を受けて、何かが掴めそうだと直感するアイリ。

というこの流れ。もはや最新作ガールズバンドアニメの導入のようだ。
おそらくこの時点で、私だけでなく全ユーザが異質な空気を感じたことだろう。
物凄く良い意味で「ブルアカらしくない」。

銃火器振り回して、往来を爆破させて、柄の悪いチンピラが跋扈する。それがブルアカの世界なのに、さも当然のように「ありふれた青春物語」を演出しようと準備を始めるのだから気が動転してしまう。

本当にいま私はブルアカをプレイしているのだろうか、などと錯覚するくらいには困惑した。こんなに日常然とした日常はブルアカで未だかつて見たことがない。

それに動機が学生らしくておそろしく共感できる。
私も高校時代は漠然と何かを始めたいと思っていて、最終的に辿り着いたのがバンド活動だった(けいおんの影響は多分に受けているが)。

だからこそわかるのだが、楽器の生演奏というのは人の心を容易に動かす動線になり得る。詳しいことはよくわからないが、耳で目で音を感じて、楽しそうだ私もやってみたいと思わせる力がある。

音楽でなくとも何らかの特技(特徴)を求めていたアイリは藁にもすがる思いだったのだろうが、まさしく丁度良い藁が音楽だった。

導入はそれだけの単純な話ではあるが、だからこそ我々と価値観を共有できる日常の演出として違和感なく腑に落とせる。

果たして、謝肉祭のオープニング演奏で入選すれば幻の菓子(セムラ)が景品として獲得できると餌を用意して、アイリは部活のメンバーを自らの動機に巻き込む。

http://session.gaga.ne.jp

唐突に挟まれるセッションのオマージュ。

しばらく練習を続けて各々上達していくが、アイリは他の面々の上達速度についていけずまたしても思い悩む。

縋った先の藁にも見放され、自分だけ技術が追いつかない現状に歯噛みする。

自分を変えようと思いバンド活動を提案し、そんな身勝手な動機に友人を付き合わせているのに、自分で定めた目的もまともに達成できない。

先生のことを「あの人」呼ばわりするカズサ、湿度高すぎるよ。
もしかしてだけど、俺たち付き合ってる?

懊悩の末にアイリは授業も練習も投げ出して逃げ出してしまう。

キャラクターの動かし方がいちいち学生らしくてリアルだ。
しかし同時に王道な青春ドラマの様相を呈しているのだから膝を打つ他ない。

このシナリオを読んでいると、やはり学生の時分を思い起こしてしまう。
あの頃は何かと不貞腐れていて、バンド活動のことで喧嘩するとメンバーが音信不通になったり、口を開けばバンドを抜けるとか言い出したり、例のように姿を眩ませたりすることもあった。技術が追いつかず抜ける子もいたし、それでも技術が追いつかずあぶれた子同士で集まりバンドが結成されたり、しかし何より誰もが楽しんでいた。

今思えば懐かしいあの日々がシナリオを通して想起され、私はなんだか泣けてきた。
きっと学生の時分に何らかの音楽活動をしていた人なら誰しも共感できるようなシナリオに仕上がっている。あるいは現在進行形で学生かつバンドでもやっている子なら容易に感情移入ができるだろう。学生然とした感情の揺れがどうしようもなく心に響く。

もはや私の心情はブルアカにはなかった。何か唐突に始まった新規の青春バンド物語に心が置かれていた。
アイリらを銃火器が側に寄り添う物騒な世界の登場人物には見れなくなっていた。
学生同士の青春を俯瞰する立場で彼女らに心を砕くようになっていた。
いつの間にか、それほどに引き込まれていた。


にも関わらず…………コレである。

「お前が見てんのはさあ、ブルアカなんだよ!」と急に頭を叩かれて正気に戻される。

留置所て。

青春ドラマには似つかわしくない、それこそブルアカらしい要素が唐突に浮上し、感動の最中に居たユーザを襲う。
この高低差。たまらねえよ。だから好きなんだよブルアカのことが。

つまりは程度の問題なのだ。

平時のブルアカは「物騒九割:日常一割」くらいの危ういバランスが保たれている。
しかしその一割が感情移入の動線の役割を果たしている。

例えばミカを想うあまり疑心暗鬼に陥る人間臭いナギサだったり、心も体も頑健だが実は可愛いものに弱いミネだったり、仕事の生々しい悩みを吐露するユウカだったり。

と、我々の持つ価値観と共通する日常的で普通の人間らしい断片が、非日常に在りながらもユーザの心をキャラクターに寄り添わせている(完全な非日常の演出だけでは感情移入が少し難しいので、本当に上手い匙加減だと思う)。

しかし当シナリオではその程度が大きく日常に傾いている。
「物騒二割:日常八割」くらいの配分で演出されているのだ(友人のために学園の首脳陣を襲撃しているのでかなり物騒ではあるが)。

故にブルアカの物騒な世界観を失念していたのだが、留置所のカットだけでそれを思い出させるのだから面白い。

そして和解するスイーツ部の面々をよそに先生はツムギと相対。
彼女は云う。「これぞ青春。青春の物語と言えるでしょう」。

ツムギは少し俗世離れした話し方をするので大仰に聞こえるが、実のところ彼女の言う上記の台詞が今回のコンセプトなのだとわかる。

青春。文字通りのそれが今回のコンセプトなのだ、とライター陣から間接的に伝えられていると私は感じた。

では今までのブルアカにおける生徒らの活躍は青春ではなかったのか。そもそも青春がこのコンテンツのコンセプトだろう。と問われれば否である。

それもまた青春なのだが、このシナリオに限っては「ユーザの認識に限りなく寄り添う形での日常的な青春」がコンセプトになっているのだ。

表現が難しいが、銃弾が飛び交うキヴォトス世界における独特な青春ではなく、それらの一切を排した純度の高い青春物語にコンセプトが置かれているのだ。

スイーツ部の面々。彼女らだけで形成された狭い一つの世界に焦点を絞ることで、物騒な要素(留置所を除く)を排し、見事に純度の高い青春が演出されている。

少し話は逸れるが、ツムギの言っていた「音楽はその人が楽しめれば、それでいいのですから」という台詞も個人的に心に響いた。

本当にその通りだと思う。下手の横好きだろうが構わない。仲間と集まり狭い世界で音楽を楽しみ、人生の中で刹那に満たない時間を共有する。それが楽しいのだ。プロの道を志す高みとわざわざ比較する必要などない。程度が知れると技術を揶揄されようがどうでもいい。楽器を持ち寄り、時間を調整し、なけなしのお金を叩いてスタジオで練習して、最終的にはそれなりに磨いた技術を顔も知らない誰かの前で披露する。そしてライブが終われば仲間とそれを振り返り、一生の思い出として心に仕舞う。そんなありふれた日常でいいのだ。各々が楽しめればそれでいい。ツムギの台詞にはある種の真実が含まれているように思えてならなかった。

ブルアカはこういうさりげない台詞がいちいち心に刺さるからやめられない。

閑話休題。

スケバンだった痛い過去を持つカズサだからこそ、
アイリの悩みに共感できた。

果たして、アイリは仲間に心情を吐露する。

先生もツムギも言った通り「周囲の存在とは自分自身を映す鏡である」。
アイリはまさしくその比較に苦しんだ。この考え方もまた人間臭くて共感できる。

人間とは主観でしか生きれない。自分が物理的に目で見たものでしか判断できず、他者から見た自分を想像できない。自らを的確に表す認識が持てない生物だ。

それ故に他者と比較する。他人のステータスは客観的で主観と比べ物にならないくらいわかりやすい。やれ誰が可愛い。やれ誰が背が高い。そんな視覚情報から始まり、その人が持つ内面をも資料にして自らを定義する。あの人と比較すると自分は、というように自分を形成する。まさに鏡写し。人間の仕様上、他者と比較することでしか自分を計れないが故に、アイリは苦悩に囚われた。

しかし仲間はそんなどうでもいいことは気にしていない。
ここでは珍しいことにナツの哲学じみた口調が正しく光る。

他者と比較するあまり、比較しなければならない生き物である限り、その中で自分の中に否定したいものを見出すこともある。人と比べると運動ができないだったり、顔立ちがどうのだったり、勉学が得意でないだったり。自己否定に陥るなんて誰しも経験があることだろう。

しかし、そんな境地に陥った時には、まず環境を見るのだ。自分自身を含めた環境を俯瞰することで、自分を肯定できるかもしれない。

自分が形成した人間関係、これまでの楽しい思い出、徒労の末に獲得した実績、なんでもいいが兎に角、自分自身だけを見つめて嫌悪に陥るのではなく、マクロな視点を持つことが自分を肯定する契機になる。

アイリの視点から鑑みれば、おそらくナツは「君は自分自身で形成した我々という友人関係を否定したいのだろうか。これまでの付き合いは楽しくなかったのだろうか。それを否定できるのであればもはや何も言うまいが、肯定できるのであれば、それは間違いなく君の実績で誤りではない」と遠回しに言っているのだろう。

刹那。アイリの脳裏にこれまでの思い出が蘇る。

アイリが友人を否定できる筈がなかった。
形成した人間関係、そしてその関係から生まれた楽しい思い出の数々。それが心底から大切だと思えるし、その時間を何ら後悔していない。
だからこそ、今、この場で友人を持つ自分がようやく肯定できた。

今がどんなに辛い状況で、自分が肯定できなくとも、これまで築いた思い出の数々、そして今の環境を肯定できるのであれば、そんなに悲観することはない。自分を否定することは自らで築いた友人や慕う相手をも否定することになる。それがしたくないと思えるのであれば、その道程は誤りではない。視野を広く持て。

そんな誰にでも当てはめることのできる教訓まで含まれているのだから、シナリオの完成度として目を見張るものがある。何だか元気がもらえる。

そしてそんな含蓄のある言葉をさらっと言えるナツに惚れた。
場の賑やかしを担い、遠回りでともすれば深い意図のない言葉を並べるどこか浮ついた印象の彼女が、ここぞという場面で(いつもの口調は崩さずに)こうもカッコ良く決める。キャラクターの動かし方が尋常ではなく上手い。最高。

だから……早くナツ(バンド)を実装してくれませんか?

※因みに導入での列車は地下鉄(アイリの心情を表すように背景が暗い)で、アイリが自分を肯定できた後の列車の窓には光が差しているのも芸コマ。

以上です。

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