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現代に問われる「賢」さ、とは

ここ最近、
賢いともてはやされる人たちの多くに共通すること、
それは、
「効率的で無駄がなく、結論をバッサリ言える人」
この定義のはじまりは、
石原元東京都知事に起因している。

石原さんは、
コスト削減、効率化という価値観のもと、
学校教育環境、
そして芸術に関する施設費などの削減を積極的に行った。

そのやり方は独善的で遠慮がなく、
強権的にメディアを取り込んで、
強烈な言葉とともに劇場型で行われた。

時はリーマンショック後。
不況の波はあちこちに押し寄せていたもんだから、
石原さんが掲げる「改革」はメディアで連日取り上げられ、
ほかの自治体も東京に続けと、
どんどん無駄とされる事業予算(主に教育や芸術関係)を
削減していった。

バッサリと言い、細かいことは気にせず、無駄は不要。
行間はいらない、結論を簡潔に話せ。
この論調は、現在はホリエモンこと堀江氏たちが継承している。
効率的で無駄がなく、結論をバッサリ言える人。
それが「賢さ」の定義としてもてはやされて久しい。

確かに「賢い」という意味を調べてみると、
1.頭の働きがすぐれていること。才知がある。利口。
2.しっかりと準備されている様子。抜け目ない。要領がよい。
(引用元:国語辞典ONLINE )
と出てくる。

確かに1と2を読めば、
賢いという意味と現代社会において「賢い人たち」には乖離はない。

彼らのような賢い人たちが世の中を占めていったとしたら、
さぞ効率的で無駄のない社会を創るのだろうと思う。
便利さに長け、ストイックで、余計なお愛想もいらない。
うまく話をまとめられない人や要領を得ず時間がかかる人、
また、憶測や懸念で話す人は
「非効率な人・(仕事や勉強が)できない人」
とされ、場外通告をされる。

そんな彼らの発言に感化された一般人は、
堀江氏らと同じような「賢さ」は自分も持っていると称して、
声高に「賢いとは効率的で無駄のない人」と
大声で身近な人たちをぶった切っていく。

結局のところ、「賢さ」を定義にふるいがかけられることにより、
生まれるものは何か。
それは「分断」だ。
「分断」だけがあちこちに産み落とされ、放置されている。
放置に至る理由は、それら「賢さ」を極めたいと思う人たちにとって、
互いの余白を埋める議論は最も無駄なものとされているからである。

ここ最近特に、福島の原発から海洋放出された処理水の件で、
「賢さ」を振りかざした分断の威力は相当大きな力を持つようになった。
堀江氏らが処理水について語った発言の中には、
その「賢さ」をカードにした分断作用が如実に使われており、
動画を見た私はとっても残念な気持ちになった。

しかし、その一方で、「賢さ」とは、
こういう使い方をされるのが
一番相応しいのだということにも気づいた。

再度転記しよう。賢さとは、
1.頭の働きがすぐれていること。才知がある。利口。
2.しっかりと準備されている様子。抜け目ない。要領がよい。
ということなのだ。
そして、抜け目なく容量が良い。ただ、これだけのことなのだ。
どこにも尊さはなく、単純に1と2を兼ね備えい
るだけのことなのだ。

一方、賢いとい文字をつかう「賢人」という意味は、
『すぐれた知恵と高い徳のある人。賢者。』
(出典元:同上―国語辞典ONLINE)
「賢い」とはまた全然違う意味を持っている。

同じ漢字を一文字つかうゆえ、
同じ意味であるかのように
勘違いをしてしまいそうになるが、
まったく違う意味合い、シロモノなのである。

混迷を極め、さまざまな地球規模の問題を
解決できずに拡大するいま、
ますます私たちには物事への認知力や、叡智が求められている。

そんな社会において、私たちは「賢さ」だけを求めることで
この局面を乗り越えていけるのであろうか?

私には、同じ漢字「賢」をつかう後者、
「賢人」をひとりひとりが意識する、
このことを求められている。
そう強く思うのである。


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