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ミラノ・スカラ座 1月14日〜365日の香水

聖地
必ず一度は訪れたい。せっかく行って一度の体験はあまりに勿体無いので二度三度、立て続けでもいいから、その空間を味わいたい。
唯一の劇場がミラノ・スカラ座だ。
音楽に造詣が深いわけでもなく、推しがいるわけでもない。
けれど、その響きはオペラやクラシック好きというわけでもないわたしにも圧倒的な響きを持つ。
ミラノ・スカラ座。

もしかすると、逆に私にとっての距離の遠さがその存在感を増しているのかもしれない。
ナポレオンの最初の妻だったってジョゼフィーヌの終焉の場、マルメゾンは放っておいてもいつか行くだろう、インドのタジマハールもきっと。
けれど、自覚的にならないと訪れることなく終わりそうなのがミラノ・スカラ座。

カラスとテヴァルディの熾烈な戦場
今、書きながらマリア・カラスとレナータ・テヴァルディを交互に聴いている。品行方正のテヴァルディと型破りで奔放なカラス。ミラノ座のプリマドンナを巡って熾烈な争いもあったと記憶している。
大切な母をなくして傷心のテヴァルディを慰めたのはかつてのライバルであるカラスだったという。

ライバル私論
勝たなければいけない相手がいることは、幸福なのだろうか?
自分を成長させるためにライバルという存在が影響するのはよくわかる。
綺麗事っぽいけれど、それはあくまで自分の成長、変容のためであって、相手に勝るという結果はあまり大きな意味を持たないのではないかな。
(わたしのストレングスファインダーは競争性が最下位)
唯一無二を目指す時、証明したい時に「勝つ」必要が出てくるのかな?
ある日ある時の勝者を決めるのはイベントとして刺激的なことだけれど、それが生涯にわたることになったら?

嫌いの否定と勝ちたいの否定
好き嫌いは仕方ない。嫌いを好きになるのは大変だし、私にも嫌いはたくさんある。
けれど勝ちたい、はあまりない。
わたしが望むのはどこまでも尊重だ。
(だから、一見友好的でも世話焼きに見えても、尊重の欠如を感じ取ると、その人が示す友情も親愛も気遣いも受けとるのが難しくなってくる。)

相手に勝つことだけが相手に関わる目的になるということは、尊重できない自分をつくることにならないだろうか。
唯一無二を証明するには理由もなく相手を否定しないといけないから。
好き嫌いで否定する気持ちは理解できる。
勝ちたいだけが理由の否定はなんだか寂しい気がするのだ。
その人がどんなに強くても、功績が偉大でも。

こんなことを徒然思い巡らしたのは、ふと、カラスが失意のテヴァルディに手を差し伸べたのは、戦う必要がなくなったからじゃないかと思ったからだ。
あるいはカラスの歌声にも浸透している彼女の情緒かもしれないけれど。

Teatro alla Scara/Krizia/1986
トスカやマノンレスコーのような情念的な演目を思わせる、フローラルなのに重く深い香り。
ミドルノートから際立ってくるジャスミン、チュベローズが冴え渡るアリアのよう。
スカラ座に行く時は必ずこれを装って。

1月14日がお誕生日の方、記念日の方おめでとうございます!

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