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全125代にも入らない天皇たちのこと、少しは知っておこうよって話。

昨年、30年ぶりに代替わりした現天皇陛下は数えて125代目にあたる。では、日本でこれまで天皇の座についた人物は何人いたか、正確に答えられるだろうか。

こう聞く以上、125人ではないだろうと考えるのは道理だが、ではどう数えればいいかというと、ちょっとややこしい。その理由の一つは、飛鳥、奈良時代に2度皇位についた人物が2人いることによる。この2人はなぜかいずれも女性なのだが、ということは、2人分引いて123人かといえばそれも正しくはない。

ちょっと日本史に興味がある勘の良い方ならお解りだろう。実はこの125代以外の天皇が5人もいる。だから「これまで天皇の座についた人物」の数は、128人というのが正解である。

一応付け加えておくと、この128人の天皇経験者の数え方にも異論がある。歴史家や後年の政治的都合などにより、存命中よりずっとあとに天皇としてカウントされた人物が何人かいるのだ。壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)に敗れ去った大友皇子=弘文天皇などがこれに当たる。

まあこのことはとりあえず別の話にするとして、ここで取り上げたいのは125代以外に存在した5人の天皇、そしてそれから数代後までの天皇にまつわる話だ。

この5人の天皇とは、いわゆる南北朝時代に即位した北朝側の天皇たちのことである。厳密には、北朝の天皇は6人おり、6代目の後小松天皇は南北朝統一後も在位を続けたので通算で100代目の天皇としてカウントされている。記念すべき100代目の天皇がこのタイミングで回ってくるとは、それはそれでちょっと興味深い。

そんな北朝方の天皇たちだが、日本の歴史においてはどうしても影が薄い。これは、南朝方の初代(といっても自ら「我は南朝の天皇である」と名乗ったわけではないが)にあたる後醍醐天皇の圧倒的存在感に対する反動と言えよう。

北朝とはそもそも、建武の新政に反発した足利尊氏が後醍醐天皇以下の勢力と互角に渡り合うために立てた「こっちも天皇を立てちゃえば良いんじゃね」作戦から生まれたものだった(かなりザックリいうとそういうこと)。

いやいや、もうひとり天皇を立てちゃえばって、そんな簡単にできるのかって、できちゃったんだなこれがこの頃は。その、何故かもうひとりの天皇が立てられちゃったことこそ、この鎌倉時代後期から室町時代にかけての、天皇家が置かれた得意性、もっと今風に言えば“ヤバみ”なのである。

この独特な時代について論じたのが「北朝の天皇-「室町幕府に翻弄された皇統」の実像」という最近読んだ新書本である。

南北朝時代といえば、太平記に代表されるように、北条家が牛耳る鎌倉政権(「幕府」という単語が一般化するのは明治以降なのでここではあえて避ける)の崩壊から後醍醐天皇による建武の新政、これに反発した足利尊氏による京都武家政権の確立、そして尊氏と弟・足利直義が対立した観応の擾乱あたりが話のメインとして扱われてきた。

しかし、この本ではそのへんのメインストーリーから一歩引いた、天皇家サイドに視点を置いた変遷がかなり細かく語られている。鎌倉中期、承久の乱のあとから生じた持明院統、大覚寺統の対立に始まり、南北朝統一後の、北朝の血を引くその後の天皇たちの戦国時代に至るまでの成り行きが、この本には事細かに記載されている。

正直なところ、足利3代将軍義満のもとでの南北朝統一以降の室町時代の政治情勢はなんとも地味で、大河ドラマでいえば空白の時代。なので、試験に出て来るような一大イベントは少ないのだが(とはいえ6代将軍足利義教は家臣にぶっ殺されるという物騒なことも起きてるのだが)、実はこの時代ほど、今に続く天皇家にとってこの上なく大事だった時代はないということが、この本から明らかになってくる。

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この頃の天皇は、南北分裂の代償を払わされる形で、最も貧しい状況に置かれていたのだ。頼れるのは足利政権をおいてほかになし、しがみついていかねばいつその血が絶えてもおかしくなく、応仁の乱以降に至っては、将軍の自宅に天皇が居候を余儀なくされるまでに。そんな状況が200年近く続いたのがこの頃の皇室の偽らざる地位だった。そんな信じられない歴史があったことを、今の日本人の何人がご存知なのか。

一見、地味歴史ナンバーワンというべき、後醍醐天皇じゃない方の天皇家の実像にせまる貴重な一冊。歴史通を語るならまずこれを読んでから名乗るべきだろう。


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