下から上を見上げれば(1)
ざっと二十数年ほども前になりまするが、当時八十歳を越えていたご老女が、私のお友だちとしておいでたことでございました。十年近くの間に及んで、好ましくお付き合いさせてもらったことでした。しかるにそのご老女はというと、タダのお婆さんのような老女なんかではありませんでした。魔女だったのでございますよ。
太平洋戦争当時に海軍士官学校を出て、将校だった人の娘さんだという方でした。ご両親と姉さんが、さらには夫君が亡くなられてからも、都内の一等地に息子サンと暮らしていたのでしたが、息子サンがようように嫁さんをもらう段になり至ったものでしたから、全財産を譲っておいて、息子夫婦の邪魔にならぬようにと、そしてまた乙女のころからの夢を叶えるべく、八十歳になった年齢でフランスへ渡って行ったのでございます。もちろんフランスの地に骨を埋める覚悟でのことだったんですなぁ。そうして、日本とフランスの文化の懸け橋となることに余生を捧げようとして、フランスの青年たちに日本語を教えておいでたのでございます。
いかに日仏両国の文化の架け橋になろうと志したとしてさえも、またフランス語によく通暁しているとしてさえも、八十歳というそんなにも高齢になってから、異国で単身で暮らそうと思い立つだけでも魔女の資格が充分だ――と、私には思われるのです。さりながら、かのご老女が魔女たる所以はまだまだあったのでございまして、それらについては追って触れるとしましょう。
その魔女氏は、たまに日本へ来ることがあって、そうした折には私に知らせてくれたものでしたから、何度かお会いしたものでございます。私も、かつては実質は異邦人というべきような人たちに、日本語を教えるという仕事をしていたものでしたから、話題にも共感するところが少なくなかったのでございました。そうした際の彼女の言いのなかには、嘆きも混じっておりましたなぁ。
魔女氏が向こうできちんとした日本語を教えていて、そうした功あって優秀な成績を修めたフランスの青年たちが、きちんとしたことばを覚えて日本に行く。すると、ご本家の日本では、若い人たちどころかイイ年齢の人たちまでもが、このごろはオカシナ日本語を使っていて、ナサケナイ――というのでございました。例えばこんなように。
「〈一学年上〉というべきところを「一コ上」などと言うでしょ、三学年上なら〈三コ上〉だし、二学年下なら〈二コ下〉だなんて言ってるでしょ。物でもないのに、なんだって……」などといって嘆いたり苦笑しておったのでございました。まったくのところ、学年などの上下を数えて言う助数詞は、〈個数〉で扱う概念ではありませんよねぇ。私も異議なく同意して、苦笑し合ったものでした。
苦笑したりしながらも、そんな時、私は飯田弁にあっての〈年上〉であることをさしていう「としかさ」ということばを思い浮かべたりしておったのでございます。
* * *
としかさ〔toshikasa〕〔年嵩〕【名詞】《低高高高》
「ダイキは、なんだってさっきからワシの頭や顔をじろじろ見とるんな。何にも付いとらんら……」
「……、あんなあ、おじいちゃは、頭の毛はちょっとしかなくて真っ白だら。そいだけぇど、ヒゲはいっぱいあって黒いじゃん……」
「そんなものを見て、何を考えとるんな」
「いっしょに白くなったりせんのは、どうしてかなぁ……」
「そりゃぁ、なんだヮ、ヒゲが生えてきたのは、大人になってからのことな。髪の毛なんか、生まれてすぐから生えとったんだもの。髪の毛のほうがよっぽど年かさなんだもんで、先い白くなって無くなっていくんな」
「ふーん。年かさの順になっていくのかぁ……。ぼくもそうなるのかなぁ」
* * *
共通語でならば、ふつうには「としうえ」〔年上〕といっておりますし、南信濃でも若い人たちにあっても、あらためて言おうとなればたいていはそのように言っていることでありましょう。しかるに、年配の飯田人たちのなかにあっては、そうした場面で「としかさ」と言って来ている人も少なくないのでありまして、私としましては「年上」なぞという語よりも、この方がずっと風情を感じるのでございます。
ただし、でございます。「としかさ」ということばは、下から上を見上げていう表現でありまして、それさえも〈それなりに上である〉場合に用いることばとしてあるのです。ですからして、この「としかさ」は年下の者に対して直截には使うことができません。
「秀サはふけて見えとっても、わしの方がとしかさな」
などと言うよりないのですなぁ。そこへいくと「年上」や「年下」ということばは、ストレートに表現できるんですなぁ。
「秀サはふけて見えるが、わしより三つ四つ年下な」――などと。
それにつけても、今の若い衆は、いずれジイさまやバアさまになってしまっても、
「ユキちゃは若づくりしちゃおるけぇど、わしゃァより三コか四コ上なんだに」
などと、やはり言い合っておるんでしょうかなン。
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