「まえで」と「おくで」だけ?


 方言というものに対する感覚というものには、おもしろいものがある。それぞれの地にそれなりの方言があるのだけれど、その地の住人たちのだれしもが「コレコレということばは、まちがいなく方言である」と確信を持って使っている語句もあれば、また一方に「これは共通語そのものだ」と認識して使っている語句もあって、そのあいだに共通語色と地域色との濃淡をまといながら、おびただしいことばが層をなしているといった様相にある。
 しかも、そうした確信や認識が、ひとりひとり違うのもまた当然のことである。さらには、その場その場において、また相対する人たちによっても、濃淡や彩りの差異があら顕われて来るのも自然なことだから、そうしたことがらも私としては味わいどころだと思っている。そこからまた進んで、ちょっとした推理の余地が得られることもある。
 たとえば、そんなことばの一つとして「まえで」という語がある。位置関係をあらわすことばとして、共通語でならば単に「まえ〔前〕」といっているそれを、飯田人たちは「まえで」と言って来ている。
 南信濃に住んでいる人々にあって、どのくらいの人たちがこの「まえで」という言いに方言としての濃さや彩りを認識しているものかは測り難いけれども、いかにも自然に使われていて、また当然のように耳に響いて、違和感の少ない表現のように私には思われるのである。
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まえで〔maede〕〔前で〕【名詞】《低高高》
 「はいもう始める時間が過ぎておりますんだが、もうお見えになる人がおりませんようなんだに」
 「今日は、出て来る人が、えらい少ないんだなん」
 「そいでなん、そのまんまじゃぁ話づらいんで、みんなお坐りのとこをもうしゃけないけぇど、もうちいっとずつ、前での方へつめていただけんかなん」
 「せっかく足を伸ばしとるんだが、そじゃ、もうちいっとずつ前でへつめまいかな」
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 南信濃では、今日でもごくふつうにこの「まえで」が日常会話に使われていて、飯田弁の味わいを醸している。しかるに、他郷の人たちには、それゆえに奇異に聞こえるようだ。
 「まえでで……」とか「まえでへ……」と言って周囲の笑いを誘ったとか、あるいは「まえでに……」と言って飯田地方の出身者だと見抜かれたりした――などといった類の話はしばしば耳にするところである。
 この「まえで」ということばにあっての「で」は、接続助詞としてのそれではなくて、一語として分かちがたく常に結びついて用いられている。
 飯田弁には、いまひとつ同類がある。それも掲げよう。
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おくで〔okude〕〔奥で〕【名詞】《低高高》
 「ぼつぼつ始めんならん時間が近づいてきておりますんだが、まだまだお見えになる人がおりますんだに」
 「今日は、場所が変わったせいか、こないだと違ってえらいおおぜい来とるなん」
 「そいでなん、みんなお坐りのとこをもうしゃけありませんが、もうちいっとずつ、奥での方へつめていただけりゃぁと思いますんで、よろしくお願いします」
 「そじゃ、ちいっとずつ奥でへ、つめてやりまいかな」
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 「おくで」は、似たように「奥の方」「奥の辺り」といった意をあらわして、使われて来ている飯田弁である。
 「で」が下接して、「~の方」「~の辺り」といった意味をあらわす語としては、飯田弁ではこれら「まえで」と「おくで」以外には無いようである。
 それにつけても、この「で」は、いったいどこから来て使われるようになった、どういうことばなのだろうか。
 横の位置をさして「よこて」〔横手〕ということがある。そうしたところから推量してみるならば、この「で」は「まえて」や「おくて」が連濁現象を起こして、そのように濁音で発声されるようになったものと思われないでもない。
 だがしかし、あるいはまた「まえへ(前辺)」「おくへ(奥辺)」と言っていたものが、〔he〕から〔be〕へと発声が強化され、さらに〔de〕へと子音転訛して「まえで」や「おくで」となったものなのかもしれない。
 私には後者の可能性をも否定しきれない気がして、いささかの推理憶測をしてみるのだけれども、いずれにもせよ定かにすることはできそうにない。

 2019・10・27 掲載

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