せせらぎの如くに聞こえるなかで

 雪景色が懐かしくなって来ている。私が子どものころには、十一月のうちにだってしばしば雪が舞ったものである。そうして、飯田の旧市内にあってさえも、日蔭の場所には春先まで根雪となって残っているような光景は、けっして珍しくなかったというのに……。近年は、冬が消えてゆくかのような気配である。二〇二〇(令和二)年にあっては、冬場にほとんど雪景色を見ることが無くて終わった。そんなだったから、次のような会話を耳にしたことだった。
*   *   *
さわ〔sawa〕〔沢・澤〕【名詞】《低高》
 「今年の冬は、えらい暖かくて、雪が降るでもなくて終わっちまいそうだなん」
 「そうな。いくらかどっかでチラチラ舞ったくらいで……」
 「こんねに雪が少なくちゃ、あっちでこっちで夏場に水が不足すりゃぁせんか、心配だが……」
 「夏場の不足どころじゃないに。裏山のさわなんか、今だってちょろちょろだに」
 「そんな、裏山のさわが涸れちまったりしとったら、田んぼや畑をやっとる衆なんか気をもんどるら……」
*   *   *
 迎えるこの冬はどんなものか。もしもまた雪が降らなくて……となっての水不足やなにやらを、私の如きが心配してみたりしたところで、どうにもなるものでもない。そうしたなかにあって、ついつい思いが及んでいくのは、話に出て来ていたところの「さわ」ということばに関してである。
 信州信濃は、海の無い県である。だが、山ならばいくらでもある。地図帳に太字で表記されるような大きな山脈だって、赤石・木曾・飛騨の三つものアルプスと称される山脈のみならず、越後山脈とを加えて、半数を抱えている。南信濃には伊那山脈さえもある。そうしてまた、山があれば谷があるのだから、信州信濃はまた谷だらけでもある。さらにさらに、そうしたたくさんの谷あいには、小さな無数の水の流れがある――という仕立てになっている。そうした山間の谷を水が流れゆくこと、またそのような場所を、古来「さわ」と呼びならわしてきている。
 日本の国はほとんど山ばかりだから、信州信濃ほどではないにしても、他国にだって「さわ」はどこにでもあるだろうし、ことさらに信州信濃がその存在を吹聴するほどの事象ではあるまい――と、私などは思っていたのだったけれども、実情はそうでもないらしいのである。
 山間の谷を水が流れてゆくといった、そのような地形は、日本じゅうのどこにでもあることは疑い得ない。さりながら「さわ」と呼ばれるところはというと、奥羽山地と信濃の中央山地にきわだって多く、東日本における特色のある存在になっているようだ。
 西日本では、そうした地勢をも「さわ」などとは言わないで「谷」といって済ませて来ている。されば西日本にあっては「さわ」は、ほとんど無いのだ――という。ことに九州においては、「沢(澤)」と呼ばれているようなところ地名地籍というものは、なんと一箇所たりとも無いのだそうな。
 しかるに、長野県にあっては、地名だけに止まっているものではない。姓氏苗字に「沢」(正字体「澤」)を持つ人たちもまた、すこぶる多い。その多様さ多量さも、蓋し他県の追随を許さないだろう。
 だいぶん以前のことだけれど、試みに飯田地方の電話帳を手に取って眺めてみたならば、以下の如くにあった。(順序は勝手に並べ替えてある)
 ただ一文字の沢(澤)から始まって、大沢・中沢・小澤・上沢・下澤・北沢・南沢・西沢・広沢・高沢・前沢・後沢・横沢・長沢・平沢・丸沢・細沢・山沢・峯沢・田澤・米沢・伊沢・市沢・飯沢・村澤・三沢・井沢・湯沢・金澤・光沢・玉沢・吉澤・倉沢・宮澤・成沢・福沢・野澤・原沢・牧沢・相澤・黒澤・寺沢・唐沢・木沢・梅沢・桜沢・藤沢・桃沢・柿沢・栗澤・竹沢・松沢・桑沢・芦沢・柳沢・杉沢・漆沢・柄沢・棒沢・唐沢・戸沢・塩沢・岩沢・滝沢・清澤・岸沢・江沢・鮎沢・森沢・熊沢・白沢・黒沢・古沢・船澤・樽沢・矢沢・尾澤・恩澤・多沢・繁沢・増沢・所沢・胡桃沢・毛賀沢・久保沢・小野沢・小金沢・……、かしらに沢(澤)がつくそれも、沢井・沢頭・沢上・沢木・沢口・澤田・澤村・沢柳・沢渡……などなどと。NTTの電話帳に、その当時の固定電話の所有主として掲載されてあっただけでさえも、枚挙にいとまがないほどなのである。
 九州の全域に較べれば狭くてある南信濃にあってさえも、山間にも姓氏苗字にも「さわ」はすこぶる多い。それに対して、あの広い九州の全七県において、「さわ」は皆無なのだという。
 だとすれば、むかしから九州に住んで来ていた人たちにあっては、姓に沢(澤)をつけて名乗るような人もまた、一人たりともいない――ということであっても不可解はない。「さわ」の概念が無ければ、そうもあろうから。
 サワサワザワザワとせせらぎのように日毎夜毎に耳にしている南信濃の住人にとってみれば、さよう、九州はまさしく別天地なのである。そうしてまた、翻って九州などの西日本から来た人たちにしてみれば、この信州信濃こそは別天地としてあるのではあるまいか。

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