下から上を見上げれば(2)

 八十歳になった年齢で単身フランスへ渡って、日本とフランスの文化の架け橋となることに余生を捧げようとして、かの地で日本語を教えていた魔女氏にとって、私は年齢的に息子サンとおっつかっつだったのでありましょうかなぁ。

 東京の銀座通りを並んで、話しながら歩いていたときのことでございました。私が車道側に立って歩いていると、いつの間にか魔女氏が車道側に来るのです。そこで私がまた位置を入れ替えて少し歩いていくと、また車道側に来てしまうのです。耳でも悪いのならば仕方がないけれど、そうではないのでございます。

 「だって、あなたは若いから」というのが魔女氏のことばだったのでございます。母親が暴走車から子の身を守ろうとするような、そうした思いでしてくれていたことだったんですなぁ。

「お心遣いいありがとうございます。でも、八十歳過ぎの女性と五十歳過ぎの男とが歩いていて、事故に遭遇した際にどちらが車道側を歩いていたかを問われたら、たとえ親子であっても非難されるのは男の方だろうと思います。ですから……」と申しましたら、「そう言われれば、そうね」とにこやかに答えて、あとは店舗側を歩いてくれたものでした。

 かくも思いやりのある女性だったのですし、その時は私の言いに笑顔で素直に従ってくれたことでしたが、魔女氏のもろもろの話によれば、何事によらずけっして諾々と流されるような気質ではなかったんですよ。

 たとえばのことに、日本にいてイヤなことは、自分を年寄り扱いして、それが本当に鬱陶しいというのでした。「自転車に乗って出ようとすると、みんなで『危ないからやめなさい』と言って止めるのよ。歩道をスキップしていると『いい年齢をして転んだらどうするの』と言って、誰もが止めさせようとするのよ。フランスでは、自転車に乗っていてもスキップしていても、みんなが微笑んで挨拶してくれるから、断然フランスの方がいいわ」――ですって。

 そんな話を聞かされて、私はついつい飯田弁でいうところの「きかさ」ということばを思いやったものでしたなぁ。

*   *   *

きかさ〔kikasa〕〔気嵩〕【名詞】《低高高》

 「タケさときたら、またよその衆とひと揉めして来たっちゅう話じゃないかな」

 「なんしろきかさだでなん。あっちでこっちで揉めごとを起こしちゃ、さわぎなもんだなん」

 「猛雄だなんちゅう名だもんで、ご本尊さまはその気になっちまっとるんだに、きっと」

 「死んだおじいまが名をつけたんだってなん。おじいまはえらいおとなしい人だったが、自分がおとなしくて苦労したもんで、きかさなほうがいいっちゅってつけたんだってな」

 「それで、子どものときから筋金が入ったのかな」

*   *   *

 自己主張が強くて、他人の言いなりになるのが嫌だという気質をさして、共通語では「きかんき」〔利かん気〕だとか「勝ち気」などと表現していることはあらためて言うまでもなかろうところです。しかし、他国にあっては「きかんたろ」(鳥取・宮崎)などといって来ている地域もあるようです。女の子には魔女氏のような人はめったにいなかったからでしょうかなン。

 「きかさ」ということばは、「気+嵩」といった構成になることばです。身の内に気が人並み以上に嵩高くあればこそ、また外にも気が溢れ出るのでありましょう。己の主張を曲げない性情を訴えて、また安易に他人の言いなどに流されない性質をあらわして、いかにもぴったりな感じのする表現であるように思われるのでございます。

 「としかさ」ということばが、下から上を見上げていう表現としてそれなりに上である場合に用いられて来ているそのように、この「気かさ」ということばもまた気力の乏しい人に対しては、原則的には使われることが無いといってよろしかろうと思います。「あの人は気かさが足りない」などと言っている場には、私は遭遇した記憶がないのです。

 「かさ」ということばそのものにありましては、単独でもよく使われて来ております。体積や容積などに視点をおいて物の大きさをいう〈和語〉でして、もとより共通語でございます。近時はしばしば大雨が降るようになって来ておりますが、そうした際にはあちこちの河川で「水嵩が増す」などと頻繁に耳にいたしますなン。「水嵩が減った」というような言いもまた見たり聞いたりいたしますが。

 ところで、かの魔女氏は、日本舞踊に秀でておりまして、しばしば船上パーティなどで踊ってみせて、フランスのお歴々から、やんやの喝采を受けている――とのことでした。たおやかにあでやかに〈藤娘〉などを踊ったりしてみせる一方で、歩道をばピョンピョンと跳びはねてスキップしたり、ランランランと鼻唄まじりで自転車に跨って、道行く人たちと笑顔でフランス語で挨拶し合っていた背筋の伸びた八十歳過ぎのご老女は、余人にとってはどうであれ、私には今なお忘れ得ぬ魔女そのものなのでありますよ。

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