ジョン・ケージ《ユーロペラ 5》 演出ノート 

ケージの演奏で面白いのは、謎解きのようでありながら、その都度異なった答えが、しかも相反する答えが複数見つかってしまう点である。ここで想い出されるのはケージが私淑していたマルセル・デュシャンの《ラリー街11番地のドア》である。2つの入口に1つのドアが対応したこの建物では、片方のドアを開けると、片方の入口は閉まってしまう。このドアから始めよう。しかしこの入口がどこにつながっているかもまた、大切である。

今から書かれるテクストは、上演に対する解説でなければ、上演を理解する助けでもない。それは上演に隣り合って置かれる文字通りパラ・テクストである。

この作品にとって演出家(director)の役割は何だろう。パート譜しかない、この作品を、コンセプトの理解にしたがって統一的に現実化すること。こう考えることはできる。しかしすぐその間違いに気づかされることになるだろう。演出家が決定しなければならないことは膨大である。時には細部とはいえないような部分すら何らかの決断に下す必要がある。問題はある一定の理解に基づいて判断を下すと、別の部分にその理解が及ばなくなる、ということである。それは統合的な理解に至っていないというより、統合的な理解を拒む物がここにはある。そこで演出家に求められるのは瞬時に理解の階層を切り替える能力。時には立ち止まってゆっくりと理解を停止させる能力。しかしこれは普段私がパフォーマンスの現場でやっていることとそう遠いことではない。それを体の別の部分を使っておこなうのだ。

こういぶかる向きもあるかもしれない。チャンス・オペレーションこそが決定の方法として与えられているのではないのかと。しかしチャンス・オペレーションは外延を必要とする。誰が内包を与えるのか。いくぶん冗談めかしてカント風にいうならば、経験的にはチャンス・オペレーションは超越的なシステムではなく、超越論的ルールに関わるのだ。しかしケージのチャンス・オペレーションによって書かれた(書かれてしまった)多くのスコアがそうであるように、チャンス・オペレーションが事前に完了していると、それが演奏に対して超越的に見えてしまうのもまた事実である。チャンス・オペレーションのプロセスを演奏に組み込んでしまうのは可能だろうか?

結果的にこの《ユーロペラ 5》をいくつかの力点を置いて私は理解し、結果的に特定の部分を強調するようなことをしている。そのことのいくつかは隠し、いくつかはここに書いておいてもいいだろう。

ケージの諸作と《ユーロペラ》の異なる点。それはケージの作品が一般に要請してしまう、さまざまな要素、音が出会う均質な空間、もしかしたらアメリカ的といえてしまう空間に、歴史との緊張関係が導入されていることだろう。功なり名なり遂げた作曲家にはヨーロッパのオペラハウスから委嘱が舞い込む、というありふれた、悪くいえば権威主義的な成り行きにに過ぎない面もあるかもしれないが、オペラというまったくケージ的でない主題と取り組むことは、ケージの創作史に別のパースペクティヴをもたらしている。

EuoperaとはEurope Opera、「ヨーロッパのオペラ」というタイトルにはアメリカ人であるケージの距離感が反映されている。歌われるアリアはアリアでさえあれば何でも良い。逆にいえば素材はオペラではなくてはならない、という態度は、同じく歴史的参照を持つ、アメリカ建国200年記念の委嘱作、《アパートメント・ハウス 1776》での特定の作曲家、語法へのアプローチの仕方とも、多くのケージの作品に見られる起こりうる音をすべて受け入れる態度とも違っている。

テレビ、ラジオの使用はケージの作品の中ではおなじみの物だが、蓄音器とならべられることで、現在に続くオペラの受容メディア史と受け取ることができる。演奏されるものとしてのオペラの歴史が片やあり、聴かれるものとしてのオペラがもう片方にある。ならば明らかに日々進化しつつある聴かれるものとしてのオペラの歴史をアップデイトするのは当然のことであろう。

EuroperaとはYour Opera、「あなた方のオペラ」というタイトルに「私たち」はどう答えられるだろうか。私たちは日本語の「オペラ」の語に意識的にならざるをえない。あるいはアメリカ人が、ヨーロッパ人が、考える日本の「オペラ」も意識しよう。ではこの私たちとは誰のことだろうか?

私はケージの設定した「オペラ」の空間に出演者のネットワークという形で日本の舞台芸術史をかぶせようとした。ヨーロッパのものとしてのオペラの受容、日本語のオペラ、ミュージック・シアターの可能性、さまざまな現在形の舞台芸術のあり方が、個々の出演者の身体技法を通して重層的に浮かび上がるように。オペラの起源のひとつとされている仮面劇を参照していると思われるマスクに集約された舞台美術は、別のやり方でオペラに隣接するだろう。そこからさまざまな線のつながりを、オペラの中へ、オペラの外へ引くことができるだろう。

ケージのいうところの演劇を、文字通りに、つまりアプリオリにジャンルが統合された物としての演劇に解釈することには執拗に異議を唱えなくてはならない。復習するならば、あの有名なそしてあまたの解釈を生み出してきた《4'33''》は音楽が時間の分節であること、その時間は聴くことによって保証されること、分節は音以外の物でもなされうることを示した。特に最後の一点は重要である。《4'33''》の初演でピアニストがピアノの蓋の開け閉めで示したように、音楽の分節を聴覚ではなく視覚に置き換えることで、音楽は音とは本質的には関係しないことを示唆して見せたのだから。しかしケージが聴く体験にも、拘った作曲家であったことを見過ごしてはいけないだろう。そしてケージは何かを聴けといったわけではない。単に聴くのである。
聴く体験は、視覚的に分節がなされることで相対化され、作曲家の作った枠組みは聴くことを分節する。しかし誰かがそこにいて聴かなければなにも始まらない。ここには作曲と演奏と聴取の優位も平等もなく、相互に規定する関係だけが生み出されている。

ケージの「演劇」の持つ視覚性は厳密にはインターメディアと呼ばれるべきである。音楽が音楽であろうとしてはらんでしまう視覚性がケージの音楽では問題になっている。したがって、さまざまなメディアを分割した上で統合するオペラとは本質的に異なる。ケージのオペラへのアプローチは、オペラ(opera)を作品(opus)の複数形、つまり「さまざまな作品」にもう一度分割しつつ、チャンス・オペレーションという単一のルールを適応して、個々のメディウムの持つ複数性にこそ焦点をあわせる。

このオペラに欠けているのはおそらく演技の要素だろう。ケージの音楽の持つふるまいは、何かの表現としての演技ではないのだから。しかし本当にそうだろうか?演技をしない、ということは演技をしないという演技をすることとどう違うのだろう。ステージの上に立つ照明家は、照明家としてそこにいるのか、照明家のふりをしているのか。舞台で演技をしないということは演技と非演技を隔てる薄皮一枚を顕わにする。そしてこの薄皮は、《4'33''》で何も演奏しない演奏者が身にまとっていたものでもあろう。

EuoperaとはYour Opera、すなわち「あなたのオペラ」である。ヨーロッパのブルジョワのものでも、普遍的な市民のものでもなく、あなたのオペラ。

あなたの目の前で起こっていることは、いま、ここでしか起こっていないということ、あなたの視点は固有のものであり、他とは違っているということ。しかしこれは、どんなオペラであっても、いやどんな音楽であっても、いやどんな絵画であっても同じことであり、しかし大方の場合、それは小さな誤差として、あるいは座席が一個しかないコンサートホールを作ることができないという現実的な規制として、積極的に考えられてこなかったに過ぎない。コンサートホールをおける理想の一点、絵画鑑賞における理想のポイント、そんなヒエラルキーを破壊するのがケージの音楽であるのは確かであるとして、そこに個別の経験の豊かさを対置したところで、それはヒエラルキーの転倒に過ぎない。ケージの音楽の恐るべきところは「いま、ここ」の体験が「いまではない、ここではない」体験に置き換えられるという可能性をはらみ、それが「いつでもない、どこでもない」絶対的な時間と空間へと横滑りすることだけは許さないという点にある。

最後に少しだけ個人的物語を。
サントリーホールの開館イヴェントでケージの《エトセトラ 2》が初演されたのが1986年。その録音をたぶん1987年に私はラジオで聴いている。その異様に退屈な音楽は、いっぱしの現代音楽ファンだった地方の中学生だか高校生だかの脳天をかち割ってしまった。エアチェックしたあのテープを繰り返し繰り返し聴いて、私は初めて芸術というものを知ったように思う。現代音楽からも遠く離れて今に至る線の最初の一点があそこだった。20年後に同じ場所でこういう仕事をするとは、偶然だろうか、必然だろうか?



ケージは晩年に5つのオペラを書いた。リブレットも通常の総譜もないこれらの作品は既存の「オペラ」を構成するさまざまな要素を一度、ばらばらに分解し、チャンス・オペレーションという方法化された偶然によって再び重ね合わせる作品である。その《ユーロペラ》シリーズの日本初演として今回上演される《ユーロペラ 5》では実際に聞こえるのは歌手やピアニストによって選ばれた既存のオペラの断片であるし、照明は仕込みからすべてeuroperaと題されたソフトウェアに上演会場の条件を入力し、チャンス・オペレーションで得られた回答にしたがってその都度構成される。《ユーロペラ》シリーズの中で特にこの《5》が面白いのはそういったオペラの再構成に更に受容メディアの歴史が重ね合わされることである。すなわち蓄音器と、リアルタイムの放送を流すラジオとテレビが登場する。

今回の上演ではいくつかの側面に力点が置かれることになるだろう。ひとつはこの作品に更に出演者のネットワークによって日本の舞台芸術のパースペクティヴを重ね合わせること。Europera(=Europe Opera)というタイトルに仮託されたケージとオペラ、アメリカとヨーロッパの距離感に私たちは日本という場所でどういう位置をとりうるのだろう。同時にそれはEuropera(=Your Opera)でもあるのだから。もうひとつはチャンス・オペレーションをスタティックな作曲から演奏のダイナミズムに近づけること。2つの公演で内容が異なるのは勿論、上演直前のチャンス・オペレーションによって出演者も演出家も何が起こるか知らない上演となるだろう。

これは演劇的作品だが、ケージの演劇は、文字通りに、つまりアプリオリにジャンルが統合された物としての演劇ではない。複数の声と身体技法、視覚と聴覚が出会う場所を生み出すプロセスそのものである。

これからの音楽は演劇になるだろうと予言したケージの演劇を、文字通りに、つまりアプリオリにジャンルが統合された物としての演劇に解釈することには執拗に異議を唱えなくてはならない。復習するならば《4'33''》は音楽が時間の分節であること、その時間は聴くことによって保証されること、分節は音以外の物でもなされうることを示した。聴く体験は、視覚的に分節がなされることで相対化され、作曲家の作った枠組みは聴くことを分節する。しかし聴かなければなにも始まらない。ここには作曲と演奏と聴取の優位も平等もなく、相互に規定する関係だけが生み出されている。

ユーロペラは個人的な体験と社会的な経験の間に垂れ下がる襞のようなものである。


2007年 サントリーサマーフェスティバルにて日本初演。

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