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雑感-ネットとの付き合い方

ドイツ気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルは、ネット空間を「無法地帯」と呼んだ。確かに、対面でのコミュニケーションを前提に作られた現行法では対処困難な事案も多いのは事実だ。バーチャル空間の秩序を維持するための法体系の整備が求められるが、やっかいなのはネットには国境がないことで、国内法を整備するだけではおのずと限界があるし、だいいち国際法として成立させるには多国間との条約の締結が求められる。
だが、氏が無法地帯と呼んだ本当の意味は、察するところいじめや誹謗中傷なども含む表面的なネット犯罪だけを指しているとは思えない。むしろ意識しないうちに自然と同質性が醸成されることへの恐れが根底にあるのではないだろうか。
人は誰もが関心の強い情報に目が向けられる。さらに、関心の強い情報のなかでも自分の感性(その場の感情も含む)に近い情報を好んで選ぶ傾向があることは否めない。それゆえ、自分から意見を発信する時でも、多くの人の同感が得られる内容を投稿しがちでもある。単純に、FBやX(旧Twitter)といったSNSで”いいね”をたくさんもらえれば世間から認められたようで、良い気分にもなる。ネット空間は、自分に関心の向くテーマを自然に取捨選択してくれるだけでなく、見知らぬ他人からも共感を得ることのできる場でもあるのかもしれない。
このように考えると、ネット空間を無法地帯と呼んだマルクス・ガブリエルが抱いた危機感がより切迫性の高いものとして感じられる。なぜなら、人の内面までを縛る法律はよほどの権威主義国家出ない限りあり得ないからである。
かつての”アラブの春”のように、大衆を動かすほどのムーブメントを呼び起こすほどの力は今のSNSにはなくなりつつある。それが、情報(見解)をone of Infomationとして扱える術を確保できたのであれば、好ましい大きな変化であるに違いない。しかし、氾濫する情報の渦の中に巻き込まれ、自分の立ち位置さえ見失っているのであれば、それは憂慮すべき事態と言わざるを得ないだろう。
生成AIが現実となりつつある中で、仕事が奪われてしまうといった恐れを抱く人も多いようだが、それこそ自分の立ち位置を見失った人の典型的な思考回路のように感じる。確かに、これまでのような知識量や演繹的な分析を行うだけで成り立つビジネスは衰退するかもしれない。むしろ、その結果導き出された解をどのように活かすかといった想像性のある分析などは必要とされるだろう。また、創造性のある分析を行う上での材料として、AIに的確な解を求めるためのAI操縦術も必要な技術だろう。つまり、自分(人間)の立ち位置を明確にして、そこから適確にAIを活用できる人材こそが今後望まれると思っている。そのためには、ネット空間における情報の渦のなかで自分を見失っている暇はないのではないだろうか。
逆説的に考えれば、ネット空間は無法地帯なるがゆえに今後求められる人材を鍛える修験道場のようにも思えてくる。ただ、修験道場であり得るなら、自分の関心事や共感できる情報に接するだけでは修行にならない。まして他人に”いいね”をしてもらうことを目的としたネットの付き合い方などは、百害あって一理にもならないように感じる。
文科省はコンピュータ学習を必修科目としたが、単にアプリを使ったゲームやコンピュータ言語などを教えるだけでは全く意味をなさない。むしろ、コンピュータという道具を使ってどのような解を導き出せるのかを実践で学ぶ教育体制を整備してもらいたいものだ。”どのような解を導き出すか?”とは、まさに生徒個人個人が自分の立ち位置を自ら考え確立するための訓練に他ならない。
明日を担う人材を育成するには今何をなすべきか?この新年、新たな気持ちで考えていきたいものだ。

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