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今更ながら「サピエンス全史」を読み始めました。

 上巻の半分ほどを読んだのですが、評判通り面白い。人類が狩猟採集社会から農耕社会に驚くほどの短期間で移行した事実についてハラリは「小麦が人間を家畜化した」と看破する。これは衝撃的だった。「野蛮で不安定な狩猟採集社会」に対して「より洗練され、安全で安定した生活が可能になった農耕社会」が受け入れられたのは当然だというのがこれまでの定説だったが、実は農耕社会になっても平均寿命が伸びたわけではなく、餓死するケースも却って増えたという。不作の年にそなえて余剰生産と備蓄が必要になり、その結果貧富の差が生まれ、より広い土地の確保が必要になり大規模な侵略や戦争が起こるようになった。農耕社会に於いては概ね9割が農業従事者であり、残り1割のエリート層がそれを束ねることになるが、9割の人間の生活は狩猟採集社会に比べて悪化したという。

 現代の我々の生活はもちろん農耕社会の上に成り立っているので、農業から工業、商業と生業が移っていっても基本的な構造は変わらない。1割の非生産者層が豊かな生活をするために9割が貧困に喘ぐという構造だ。(もちろんその比率は状況によって変わるが)

 資本主義という概念が生まれて200年以上が経ったが、「貧富の差が開き、社会が不安定になる」という原則は繰り返され全く改善されてはいない。社会主義〜共産主義というアイデアも失敗に終わった。「経済的な平等」というのは農耕社会をベースにしている以上避けがたい問題なのかもしれない。なにしろもう2万年以上も解決されていないのだから。

 今なお一部の人間が(僕もそうだけれど)狩猟や自給自足の生活に憧れを感じるのはその「農耕生活=搾取システム」への本能的な反発なのかもしれない。

 「自分でコントロールできない事に自分の生活を左右されたくない」というのがその根本にはあると思うのだが、狩猟採集社会ではむしろ「自分でコントロールできない事」だらけである。それは「狐が増えて獲物のウサギが減った」とか「寒くて木の実が採れなくなった」とか自然そのものが予測不可能なので、それは受け入れて生きてきたのだと思う。それが「自分でコントロールできない事」が他の人間に左右されることには耐えられない。それは「本来平等であるべき人間に格差が生じている」という感覚があるからだろう。

 たとえ貧しさ、ひもじさは同等であっても狩猟採集社会でのそれは「自然によるもの以外は自己決定できる状況」であるが農耕社会のそれは「他の人間によって状況を決定される状況」であることが多い。この違いからくる根本的な違和感を拭えないまま2万年が経ったのが今の社会なのだろう。

 と、まだ1/4しか読んでいないのだが、意外に現代社会の日々の問題に関連している気がする。面白い。



 



 

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