ネガとポジ

決してnoteのせいではないのだけれども、noteに何か書こうとするとちょっと構えてしまう。もちろん全部がそうという訳ではないのだけれど、自分が好きな記事を書く人はみんなすごく素敵で、文章も上手くて、面白くて、品もある。そして何より読んで深く共感したり、人生に役立つような気がしたり、自分にはない体験をしていたりするからつい、何かいい事を書かないといけないような意識が生まれてしまう。で、「やっぱりたいした事書けないなぁ」とキーボードを打つ手が止まってしまう。ちなみにブラインドタッチが中途半端にしかできていないので元々止まりがちなんだけど。昔「北斗の拳」の早打ちソフトを買って練習したんだけど普段文章打つ仕事じゃないから忘れてしまった。

前回、ネガティブな事を書いてみたらどうだろうという話を書いたがやはり反応が鈍かった。やっぱりみんなネガティブな話は読みたくない。うん、それはわかるのだけれども、人間ってそんな綺麗なもんじゃないだろう、とも思ってしまう。見栄えのいい事ばかり発信して自分が立派な人間のように振る舞うのも恥ずかしいし嘘だし、息が詰まってしまう。その辺りがnoteに限らずSNSで発信することの難しさなんだろう。少なくとも僕にはそのさじ加減が分かっていないのだと思う。知人で結構ネガティブな事書く人がいるんだけどフォロワーも増え続けて物販も回しててそれがもう一種の「芸」になっていて、ここまで突き抜けるといいのかな、と思う。そういや日本の私小説なんかはネガティヴな自虐を芸にまで昇華させたようなものかもしれないな。かの開高健さんは出版社に電話するときの第一声は決まって「哀れな開口でございます」だったそうで。

弱さを外に出せない風潮というのはここ20年くらいの新自由主義的な考え方が大きく影響していると思う。あるいはそれ以前からあった「ネクラ=運動が苦手でアニメや文学など文化系のジャンルに傾倒し、対人関係が閉じた関係に偏りがちな人間」を馬鹿にして排除したりイジメの対象にしたりといった風潮もその下地になっているのかもしれない。

「弱いところを見せたら負ける、つけ込まれてイジメられる、勝ち続けているように見せなくては競争から脱落する」という恐怖感から逃れられない。そうしたネガティブなものを読むだけで不安を感じてしまう。まるで不幸が伝染するかのように忌み嫌う。日本には古来からある「ケガレ」の思想そのものだ。言霊信仰も同様にネガティブな言葉を口にするのを禁忌としてきた。そしてポジティブなことだけに触れることで「自分は“こっち側”にいるんだ、負けてないんだ」と安心したいし、より自分の人生が豊かである事を信じたい。経済的に成功したいというのもそうだし、「お金はないけど毎日を感謝して豊かに生きる」というのもその意味では同じ事だと思う。

弱さをそのまま出す、のは確かに人を不快にさせるかもしれない。でも自分の弱さをさらけ出せるような場所が新橋のガード下の他にもあっていいんじゃないかと思ったりもする。あ、自分が今そういう場所がないからかな。新橋遠いし。

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