解散の話

年をとるごとにね、
喪失に対するかなしみの解像度はどんどん上がっていきますね。

人生が豊かになればなるほど。
大切な人が増えるほど。
どん底にいた時に救ってくれた音楽が増えるほど。

例えば、人の死。
私は早くに母親を病気で亡くしていますが、
子供の頃は母の死なんて理解できるはずもないから、
死の直後「頑張ったから仕方ないね」と悲しみに暮れる叔母達に言って回った記憶があります。
今思うと全くもって意味がわからない。
それもそのはず、
私本人が死がなんたるかをわかってないから。
なんとなく、
泣いてはいけないと感じた記憶だけはあるけど。
そう感じたのももはや意味がわからないけど。

理解できないが故に、
 その死がどんな影響を及ぼすのか
 自分にとってかつてどういう存在だったのか
 生きていたらどうだったのか
 後悔はなかったか
 自分が喪ったのははたして何なのか
 (この場合、母の存在そのものだけでなく
 それ以降の母のいるはずだったくらし
 母と交わすはずだった言葉なども含まれますね)
到底これらのことを想像することすらできないんです。
これが、解像度の低い状態だと思っています。

大人になってから親を喪うほうが、
よっぽど辛いように思います。
親の偉大さを身に沁みて理解していたりする上に、さっき挙げたようなことを鮮明に想像できてしまうから。
想像できるからこそ、思い出を愛しく思ったり、
慈しんだりすることもできるんだけど。
まあこれらは、関係がうまく行ってる前提ですが。


前置きが長くなりましたが、つまり言いたいのは、
私は人生のうちにあと何度
「ファンの皆様へ大切なお知らせ」
という通知に打ちひしがれなければならないのか
ということです。

親の死と、大切なバンドの解散を並列として語りたいわけではありません。
母を亡くしてから長く時が経っているので、
悲しみこそ深く感じることはないですが。

今を生きる私にとっては、今を共に生きているバンドなりミュージシャンなりがその音楽人生に終止符を打ってしまうことがとてもとても辛いのです。
それはあまりにも突然に訪れます。

椿屋四重奏も、
NICO Touches the Wallsも、
plentyも、
私にとって大切なバンドでした。
別れは本当に突然です。

そして私は、解像度の上がった頭で考えるのです。

この喪失がどんな影響を及ぼすのか。
自分にとってかつてどういう存在だったのか。
活動が続いていたらどうだったのか。
後悔はなかったか。
自分が喪ったのははたして何なのか。


後悔のない人生なんてないので、
減らせる後悔は減らして生く、
というのがこの頃のモットーです。
※生く(いく)というのは、THE BACK HORNの「ひょうひょうと」という曲からの出典です。


Panic! At The Discoの解散が寂しくて仕方ない、
というお話でした。


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