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あくあゆの浄土真宗聞法体験記 (4)

法話会での体験談発表その3

以下、二年ほど前の、私と龍雲先生の聞法道場でのやりとりの一部をご紹介します。

ちょっと長いです。 
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あくあゆ : 阿弥陀様の言い分に対して、はいと頷こうとする自分の思いは表面だけで、もっと思い知らされないといけないとか、もっと追い詰められないといけないと思う自分が根強く居座っているような気がします。 

また、仏法から離れて楽をしたいと思う自分と、最後のところで辛うじて仏法を聞かせて頂いている自分がいます。 

辛うじて聞かせて頂いているのにも関わらず、自分の手柄だと思い上がっています。 

Ryuun Kubo : では「もっと思い知らされないと、もっと追い詰められないと、、、」というあくあゆさんに対して、阿弥陀様の言い分はどうなると考えられますか? 

あくあゆ : 「自分でどうこうしなくてもいい。全て私にまかせなさい」と仰ると思います。 

Ryuun Kubo : 少し詳しく教えてください。「全て私にまかせなさい」とありますが、阿弥陀仏にまかせるとは、どんなイメージでしょうか? 

あくあゆ : 念仏称える私を極楽浄土に生まれさせて仏に成らせるという誓いを自分の思いをはさまずに聞く。 

どうこうしようとか、◯◯だから…とか様々な思いや迷いが出てくる私だからこそ救うと誓われたのだから、迷ったり悩んだりしている自分のままで、思いにとらわれすぎないで阿弥陀様の誓いに耳を傾ける。というイメージです。 

Ryuun Kubo : そうですね、自分の思いにばかりとらわれると聴聞になりませんし。では、「迷ったり悩んだりしている自分のままで」というところを、さらに考えてみたいと思います。 

書かれているように、そのように迷ったり悩んだりする自分というのは、阿弥陀仏の救いの対象です。

これをさらに言えば、「迷ったり悩んだりするあくあゆさんだからこそ、阿弥陀仏の救いの対象である」ということになります。 

迷い悩む人というのは苦しんでいる存在ですから、最高に慈悲深い阿弥陀仏から見れば当然、救わずにおれないわけですね。 

ですので「迷い悩む自分の思いにあまり注目せずに、阿弥陀仏のお誓いに耳を傾ける」というよりは、、、「迷い悩む自分がいるからこそ、法蔵菩薩が立ち上がられ、南無阿弥陀仏が作られたのだ」というイメージになります。 

ここまでは分かりますでしょうか。 

あくあゆ : はい、わかりました。 

Ryuun Kubo : では少し考えてほしいのですが、苦しむ者や劣った者は、阿弥陀仏の救いの対象です。 

ここからいえば、いくら聴聞しても思い知らされないあくあゆさん、追い詰められないあくあゆさんが、阿弥陀仏の救いの対象だということになります。南無阿弥陀仏が作られた理由ですね。では他に、どんなあくあゆさんが救いの対象だと考えられますか? 

あくあゆ : 悪業を作り続けながら、全然悪いと思っていない私、阿弥陀様の生起本末を聞いても本当のこととは思えない私、いつかは死ぬと理屈ではわかっているし時折恐ろしく思うことがあっても、腹底ではいつまでも死なないと思っている私です。 

Ryuun Kubo : ではこの「悪業を作り続けながら、、、」という文章を、再度客観的に(他人が書いたものとして)、読んでみてください。 

読んだら、 

「こういう者に対して、阿弥陀仏は何か期待しておられるだろうか?」 

と考えてみてください。 

どんな答えが出てきますか? 

あくあゆ : 何かをして欲しいという期待はしていないと思います。 

Ryuun Kubo : では阿弥陀仏は、どのようにしてこういう者を救うと誓っておられると思い ますか? 

あくあゆ : 南無阿弥陀仏を称えさせてその功徳により極楽浄土に生まれさせて仏に成らせると誓っておられると思います。 

Ryuun Kubo : ではあくあゆさんも念仏をとなえてみてください(誰にも聞こえないような小声で結構です)

となえましたか? 

となえたら、次の質問について考えてみてください。 

あくあゆさんの口から出ている南無阿弥陀仏には、一体どのような意味があるでしょうか?

 あくあゆ : 私を極楽浄土に生まれさせて仏に成らせる功徳があります。 

Ryuun Kubo : そこに何か不満はありますか? 

あくあゆ : 不満はありません。 

Ryuun Kubo : ではあえて聞きますが、救われた実感はありますか?

 あくあゆ : …ありません。 

Ryuun Kubo : その救われた実感の無いあくあゆさんは、阿弥陀仏の救いの対象から外れますか? それとも外れないでしょうか。 

あくあゆ : 外れません。 

Ryuun Kubo : 教義を正確に把握しておられると思います。 

ところで浄土真宗の聴聞とは、「自分の言い分を聞くこと」でしょうか?それとも、「阿弥陀仏の言い分を聞くこと」でしょうか。 

あくあゆ : 「阿弥陀様の言い分を聞くこと」です。 

Ryuun Kubo : ではあくあゆさんの口から出ている南無阿弥陀仏が、阿弥陀仏の呼び声であるということは、分かりますでしょうか。 

あくあゆ : 頭では理解しています。 

Ryuun Kubo : ということは、たとえ実感は無いとしても、南無阿弥陀仏が「我が国(極楽浄土)に生まれさせ仏に成らせるぞ」という阿弥陀仏の呼び声だということは、理解しておられるということですよね。 

あくあゆ : はい、その通りです。 

Ryuun Kubo : ならばもう十分ではないかと思います。南無阿弥陀仏をとなえながら、その呼び声が作られた理由を、つまりご自分のお粗末さ(作っている罪の数々、本願が分からない、救われた実感が無い・・・など)を見つけて、聴聞していって頂ければと思います。

また何か疑問が出たらお気軽におたずねください。 

南無阿弥陀仏 

あくあゆ : ありがとうございます。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏(-人-) 

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