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Book Review #1 「くらやみに、馬といる」:2つの感覚のチューニング

Takeshi Okahashi


デザイン体操ABC

ベルリン在住の日本人デザイナー阿部雅世さんのサマーワークショップに参加したことがある。阿部さんは、ベルリンやエストニアの大学など教鞭をとってきた、感覚を重視したワークショップや作品づくりで知られるデザイナーだ。彼女を知ったのは、「なぜデザインなのか。」という対談本だった。本の中で、阿部さんは対談相手の大御所デザイナーと白熱の議論を繰り広げ、むしろ切れ味の鋭さでは上を行く勢いを見せていた。その彼女がベルリンで1週間のワークショップを開催するというので、思い切って参加してみたのだ。

ワークショップは、蓋をあけてみると、とてもシンプルでいて心に響く、上質なデザインそのもののような経験となった。参加者は、日本やドイツ、イスラエル、ルーマニアなど、4-5カ国から10名ほど。学生やデザイナー、研究者、レストランオーナー、と年齢も分野も多様な面々だった。

初日の課題が印象深かった。阿部さんのオフィスは、ベルリン市民の憩いの場である緑あふれる広大な公園ティーアガルテンのすぐ側にあった。初日は、短い挨拶の後すぐに爽やかな夏の日差しが降りそそぐティーアガルテンへ繰り出した。池を囲む一角に着いた後、阿部さんから出された課題は、2人1組になって、自然の中に0から9までの数字を探してデジカメで写真を撮るというもの。

例えば、1であれば、落ちている小枝をパシャリ。6であれば、つるの先がくるりと丸まっているところをパシャリ。そう、草花や木々、ランドスケープを数字の形に見立てて写真を撮っていくのだ。1や6、0を探すのにはあまり時間がかからない。しかし、3や5はなかなか見つからない。パートナーと、これはどうかななどとしゃべりながら草木に分け入っていく。

あっという間に時間が経つ。僕のお気に入りは木漏れ日を3に見立てた1枚だった。次は、アルファベット。小文字のaからzまでを自然の造形の中に探す。難易度がグッと上がる。また草木に目を凝らし始める。

そうこうしているうちに、ある変化に気がついた。名前もわからないのに、そのあたりにどんな種類の草木、木々が植えられているのかが分かってきたのだ。また、草木の造形や木肌のテクスチャーの多様さ、木漏れ日の美しさにも目がいくようになっている。

見ようとするとこれだけのものが見えてくることに驚くとともに、自分がこれまで目の前にあるものをいかに見ていなかったのかということに思い至る。感覚を研ぎすまし、ディティールを見抜く目を養うデザインの本質を教えられたように感じた。阿部さんはこのワークショップを「Design Gymnastics ABC」と呼んでいる。

ベルリンでの経験は、今でも時折思い返すほどの得難い経験だったのだが、昨年秋、人間が持つ感覚の繊細さについてベルリンの時と同じくらいの衝撃を受けることになった。今度は、何気なく手にとった一冊の本だった。

与那国島のくらやみ

出張先の熊本で立ち寄った書店で手にとったその本のタイトルは、「くらやみに、馬といる」。手のひらより少し大きいくらいの、一見すると詩集かな?と思うような素敵な装丁の本だ。馬を特集したコーナーの端っこに平積みされていた。著者の河田桟さんは、2009年から馬と暮らすために沖縄は与那国島に移住し、暮らしている。プロフィールには、馬飼い・文筆業とある。

河田さんは、馬の相棒であるカディが疝痛(せんつう)という病気になり、毎日つきそい、夜も3時間ごとに目覚ましをかけてカディの様子を見にいったそうだ。そこで、夜の馬の世界を知ることになる。

実は、河田さんのサイトで1章を立ち読みすることができる。以下にも、さらに抜粋して紹介する。

カディの容態にようやく回復の兆しが見えてきたある晩、私はカディのかたわらで一息ついてぼんやりしていた。草の上にすわって手元を照らすライトを消した。

光が無くなり、見ていたものが見えなくなった。自分の体も見えなくなった。まるで自分という存在の輪郭が消えてしまったようだった。こわい気持ちはなく、むしろ、くらやみのなかって心地いいんだな、と思った。私の心身は光あふれる世界より、くらやみになじむと知った。カディの息づかいが聞こえた。すこし離れたところに他の馬たちの気配があった。とても静かだった。

ふと、
ここは、馬たちの世界だ、
と思った。

私は馬を見るのが好きだから、これまでも機会があればいつでも馬を見てきたけれど、それは昼間の、ヒトの世界から見た馬だった。日暮れて私が家に帰り、朝起きて馬のところへ行くまでの間、あたりまえのことを言うけれど、ヒトがいない世界で、馬は馬として生きている。

そのことを、思考の筋道としてではなく、みずみずしい感触として味わっていた。
それにしても、馬とくらやみにいることの、このおだやかでしみわたるような喜びはなんなのだろう。人生で初めて経験する感情だった。

カディの体調が回復した後も、河田さんは日常的に夜明け前のくらやみに通うようになる。

例えば、「くらやみの景色」という章では、新月から十三夜月の頃までの漆黒のくらやみの中にいると、だんだんとくらやみの中にぼんやりとくらやみに濃淡が現れてくることが描かれる。物の境界もぼやけ、自分も見えなくなるほどの世界にいると、普段使っていない感覚が冴えていくそうだ。「聴覚や臭覚や触覚がいっせいに敏感になり、すべてが混じりあいながら、全体で世界を感知しているのだろう。馬たちの見え方に少し近づいたかもしれないと思った。」と思うほどに。

くらやみと馬にいることで、そんな感覚になっていくのか。自分では実際に経験していないことながら、河田さんの観察力と表現力に助けられながら、与那国の夜を想像する。

「輪郭が変わる」という章では、カディと向き合うことで、ヒトと馬の認知のしかたが違うことを再認識させられる。例えば以下のくだりなどは、そんな種の超え方があったのかという驚きとともに息をひそめて見届けるしかなかった。

「私がカディと向き合うとき、ヒト同士の関わりあいでは生まれない現象がそこに生じる。馬の認知のしかたは人と違うから、おのずと私はヒトであるだけでの私ではなくなる。カディは馬であるだけのカディではなくなる。」

カディは、河田さんの体や動きや気配や匂いを感じ取り、通常のヒトではありえないほどの微細かつ細やかな反応をする。その反応によって、河田さんの感覚の回路が開いていく。

たんたんと、しかし静かな驚きをいくつももたらしつつ、文章が進んでいく。

しかし、なんだろう。僕がベルリンで学んだ(と思った)感覚の「意識化」とは、また違う何かが描かれているのだ。

あわいのチューニング

ベルリンでのワークショップが意識のレベルを上げて細かく細かく分けて見ていく「精緻化」をめざした感覚のチューニングだとすれば、与那国島で河田さんの身に起きているのは、くらやみに溶け込み、馬とヒトの感覚のあわいに迷い込み、感覚をぼやかしていくことで結果的に意識を顕在化させる「あわい」のチューニングとでも言えるだろうか。

そして、ベルリンのワークショップに比べると与那国島の河田さんは圧倒的に受け身である。「じっとしている」という章で、河田さんは「こんなふうに私がくらやみの世界になじむのは、自分のエネルギーの少なさが関係しているのかもしれない」と書いている。河田さん自身が、数年前に大病をしたそうで、その時から自分の生き物としてのエネルギーが弱くなったがために、馬のそばでじっとしていることが自然に感じるのではないかというのだ。

ベルリンでは、世界をしっかりと「見る」ためには感覚を研ぎ澄まし、じっくりと見ることが大事だと教わったが、どうやら世界の見方はそれだけではないようだ。その土地、その場、その自然(動物や人間も含む)にたたずみ、圧倒的に受け身になることで「見える」ものがあるのかもしれない。いや、それは実際にあるのだ。

じっくりと見ることの大切さが減じるわけではないが、じっくりと佇み、見えるか見えないかわからないくらいの「あわい」を感じることの大切さは、それが気づかれにくいことも相まって、もっともっと気にされるべきことだと感じる。この本を読んでからというもの、くらやみのような「あわい」の中で感覚を呼び覚ます方法について考えるようになった。河田さんというヒトが、カディという馬にくらやみで出会い直すことができた幸運だけのものにしたくない気持ちが僕の中にあるのだ。

受け身であるにもかかわらず(だからこそ)、新しい感覚の地平を開くことができる。そんなやり方に多くの人が気づくことができるなら、大きいことや多いことがパワーであるという前提のもとに成り立っている様々な物事に対してのアンチテーゼにもなるのではないかと思っている。

また同時に、どうすればこういう感覚を持つことができるのだろうか?という考え方では、「あわい」のチューニングにはたどりつけないだろうなということもうすうすと感じている。これからも時おり河田さんとカディが過ごすくらやみに想いを馳せながら、僕にとってのくらやみはどこにあるのか、目を凝らしていきたいと思う。いや、目を凝らすのではなかった。くらやみのなかで目を細めてぼんやりとしていればいい。

くらやみに、馬といる
河田桟
カディブックス https://kadibooks.com/home/

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