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備忘録その1

死生観について他人と意見を交換したいと常日頃考えているが、周りは触れづらい話題であると思っているためか、その目標は未だ叶っていない。
ふと頭の中で意見を思い起こしては霧散させ、吐き出せない日々が続いているのでこうして文章に残そうと思ったわけである。
正直唐突に書き始めた日記の1つ目のテーマにしては、些か壮大すぎるように感じてはいるが。
(普段他人と会話しないので、予め脳内を整理するという意味もこめて。)

死生観については、生きていく上で必要不可欠であると私は考えている。
誰しも日々を過ごす中で自分の人生に物足りなさを感じ、生きる意味について考えたことが1度はあるはずだ。
生物学的に考えれば、生きとし生けるものには必ず終わりが来るし、種の存続以外に本質的な意味は存在しないだろう。人生について考えると、大体こういった結論に収束する。
哲学の主眼としては答えのない問いとされている以上、こういった答えは極論のようにも捉えられるので、正直あまり価値はないと思う。
しかし、一個人に対して使命や大義が存在するのは基本的に創作の世界の話であり、ただの憧れに留まるものだ。
もし人生について自分なりの答えを持っているならば、毎日それほど落ち込むことなく安定した気持ちで過ごせていることと思う。

ネット上で毎日のように希死念慮を垂れ流している10代の男女についてはどうだろう。
目先の承認欲求や劣等感に苛まれ、自分の軸が定まらず何かに依存しようとする性質が強いため、慢性的にこの問題に直面しているのではないだろうか。
誰かに愛されてるという実感がなく、自分の存在意義について無意識に自問自答し、誰にもぶつけようのない苦しみを抱えている。そんな人間が、画面の向こうには無数に存在している。
彼らはインターネットを通して本来見る必要のないものを過剰に摂取し過ぎている。それは、彼らの望んでいた理想を手にしている者であったり、上位互換のような存在であったり、あるいは睥睨し、彼らを支配しようとするもの、その他大勢の野次馬といったところである。
それぞれの幸福が存在しそれを追求する中で、悪意を持ってアピールする者や気に入らないものに対して過剰に反応する者の存在は無視できない。
簡単に言ってしまえばネットと距離を置けば済む話なのだが、皮肉なことに彼らはネットに居場所を求めてやってきているのが大半である。
まして視野狭窄で心の余裕がない状態であり、各々が心理的な障壁を抱えているため一筋縄ではいかない。
そうこうしているうちに暗い死の淵に引きずり込まれて、最悪の場合命を絶ってしまう人間もいる。かつて私も似たような境遇にあったと思うし、それを見てきた。
実感としては、他者によって増幅された負の感情が、心の大半を占めているような状態とでも言うべきだろうか。
些細なきっかけでも、それが積み重なれば人は案外簡単に折れてしまったりする。

最近読んだ哲学書に、物事が自分に影響を及ぼしている訳ではなく、全ては主観から来ているという言葉があった。
自分の受け取り方ひとつで、物事はいくらでも感じ方が変わる。自分が攻撃されていると感じても、別の視点から見ればそこまでのものではないのかもしれない。

他者の気持ちを完璧に理解することは出来ないが、結局のところ自らが築いてきた死生観を通して、衝動的な気持ちに対して折り合いをつけていくのではないだろうか。その過程において精神的に病んでしまった人間も、周りに支えられて、やがて社会へと帰属していく。
そうして人は成長し、ある種の納得を得るはずだ。
結論としては、ありきたりだがそういうものだと受け入れるのが筋だろう。強いて言うならば、自分らしさを見出して生きるしかない。
私はその答えを模索している最中である。

書いているうちに夜が明けてしまったので、このくらいにしておく。

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