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偉そうな振る舞いは嫌いなの。

コロナ対策で大変なこの時期に、勤め先に、文脈もない偉そうな言葉で、退職間際の大先輩を心の病いにまで追い込んだ人が、一番偉い立場に就任することが決まった。

ただただ誰もが何かしらを成し遂げやすかったバブルの時代に、勤め先の事業を立ち上げて、そのまま去った方だ。

後数年、仕事をまっとうしようと頑張っていらした現在病欠中の役員が、今はコロナ対策にスタッフたちを専念させたいので、頼まれたことは対応が終わる数日後まで少し時間をいただけないかと丁寧に書いたメールへの、その就任される方からの返信はたった2行、

「ふざけるな。約束しておきながら、この嘘つきめ。すぐにやれ」

だった。お休みになられる前に見せていただいたそのメールだけではない、数々のやり取りの言葉に唖然とした。

そして、そんなやり取りを見ても、その方を就任させるという、無責任な行政上層部に、だから政治家はパワハラも平気でできちゃうんだと、変に納得してしまった。

自分が正しいと思うことは悪いことではない。ただ、上の立場の意見は命令となることを自覚していない方の直属の部下として今の仕事を続けられるか、とても悩んだしたくさん考えたものの、まだ最終的にどうすべきか答えが出ずにいる。

今の仕事が好きだし、色々あってもスタッフもみんな一生懸命だ。再来年まで仕込んでいる仕事もあり責任もある。一方で、みんなに任せてもきっと上手くやってくれる力強い信頼もある。組織に属して生活していくなら、人事問題はしょうがないことだとも思う。

もやもやして過呼吸を頻発するようになったので、ずっと計画倒れになっていた、宮城の温泉宿にプチ湯治に行ってきた。

温泉に入る前に、お茶を入れて、一服してからお湯に浸かる。あー、お茶さえもペットボトルでしか飲まなくなったなと気づく。朝ご飯が出来ましたよーと呼ばれる、家族と暮らしているような居心地のよさ。手作りの塩納豆と自分でゴマを混ぜ合わせてすり鉢で潰し玄米ご飯にかけて食べていると、ふと涙がでそうになった。

「自分らしく」や「仕事の責任」などという考え方は、おこがましい狭い了見で、手前勝手な自己規定でしかない。欲望を叶えるための固定的な目標などもたずに、心のままに生きるというのは勇気がいるほど大変だろうけれども、ストレスがたまる日々を過ごすより、人として真っ当に頑張れるような気がしてきた。

宿の方々とお話ししたのは、少しだけだったが、乗り超えられていらした日々にはすごいことがいくつもあったのだろうなと、滞在中、至るところで感じ、またここに今回は家で待ってくれている大切な人と一緒に来れたらいいな、と心から思った。

そして、偉そうに振る舞って相手の意見や気持ちを全く考えない人は嫌いだし、一緒に働きたいと思わないことだけは、はっきりした。

明日は就任式をホールで行いたいとご希望されたらしい。呆れてしまう。この先どうするかの答えが固まりそうだ。

(玄侑宗久著「なりゆきを生きる」読了。湯治をしながら読むにはぴったり。宮城にこの本を持ってきたのは偶然だったが震災を体験されたからこそすっと身体に浸透する、いいお湯のような本に救われました。一部引用)


最後まで読んでいただきありがとうございます。幸せ(*^^*)