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理想のキッチン探し⑪歴史編・DKの誕生

 お盆が明けると仕事にまみれる日々が再開。物件探しはいったん中断し、キッチンの歴史を改めて勉強することにしました。何しろ私は生活史研究家。成り立ちと背景を知ったうえでの現在を考えたいのです。というか、広さと安さの両立を求めて物件を探すと、いかに日本の賃貸住宅でキッチンがないがしろにされてきたかに直面することになったことも大きい。

 キッチンは、人が生きていくうえで欠かせない食事を作る場所です。それなのに、ただセットキッチンやシステムキッチンの極小のものを置いとけばいいでしょ的な物件の山は何。動線を全く考えていないレイアウトは何。コンロが2口なのはよくある話。たぶん、1人暮らしの物件を探せば、1口だって珍しくない。食洗機も置けないのに洗いかごを置くことを想定していない狭すぎる作業台は何。

 最初にnoteで連載を始めたときは、家事について書いていましたが、そのときも、エッセイ集を出したときもくり返し書いたように、料理する気をなくさせるキッチンが多過ぎるのです。

  その中で、最初に観たURのキッチンはよく考えられていました。その後も何軒か見たけれど、作業スペースにはゆとりがあり、コンロも3口、換気扇もお手入れしやすそう。考えてみれば、URの前身は1955年に誕生した日本住宅公団です。歴史を観たら、URになったのは、2004年でした。

『プロジェクトX』のダイニングキッチン物語

 日本住宅公団は、ダイニング・キッチンという造語を生み出し、大量生産を実現してキッチンの近代化をすすめた組織です。折よく、NHKが再放送を続けている『プロジェクトX』の7月6日放送回で「妻に贈ったダイニングキッチン」を録画していたので、改めて観てみました。

 ダイニングキッチンは、戦後の焼け跡でこれからは住宅、と決意した夫婦の物語から始まります。建設省に勤めていた夫、尚明さんが公団が設立されると応募し、初代住宅計画部課長になり、計画を主導します。尚さんといえば、琉球王国の王家の末裔。そして妻の道子さんは、創成期の『きょうの料理』で教えた料理家で岸朝子さんの姉。『プロジェクトX』はそのことを語りませんが、尚道子さんがタコさんウインナーを考案したことだけ伝えます。スピード料理を最初に『きょうの料理』を教えた人でもありました。

 とにかく住宅の量を求められていたことから、キッチンに与えられたスペースはわずか畳2枚の1坪。そこに、衛生的な意味から食寝分離をしようと食堂を入れる。設計は女性建築家の草分けの浜口ミホに依頼。そして、400個もの試作を経てサンウェーブ工業の若手技術者が量産化を成功させた、ステンレスの一体型シンクを入れる。シンクは、あえて作業スペースとコンロスペースの真ん中に設けると、浜口が主張。作業順にシンク、作業台、コンロを設ける従来のやり方を主張する女子栄養大学の武保(たけ・やす)助教授と対決し、浜口が主張するポイント・システムが圧倒的に動きが少なくラクだと判明して導入が決定、武教授は新キッチンを奨励する。

 尚は妻が北側の台所で寒そうに作業していた姿を観て、急遽ダイニングキッチンを南側に設けることを主張。喧々諤々の末、明るいキッチンの導入に成功する。

 その物語に、家族の愛場や職人の努力が織り込まれていて、初期の『プロジェクトX』は見応えがありました。

女性建築家の草分け、浜口ミホとは何者か?

 浜口は、1947年に『日本住宅の封建制』というセンセーショナルな本を出し、業界で注目されていた人でした。むっちゃ気になると思って探したのですが、手に入らない。東工大の図書館にあることが判明したのですが、コロナ禍で一般の人は入れないそうです。替わりに、浜口の評伝が入った『ダイニング・キッチンはこうして誕生した』(北川圭子、技報堂出版)を版元から取り寄せました。

 まさにタイトルの通りの本で、浜口の評伝のみならず、近代的なキッチン誕生への歴史も描かれていました。実は、浜口は大連生まれのお嬢様で、結婚したときも子どもをつくらないと夫婦で決め、新婚初日に夫が「どうしてご飯を作ってくれないの?」と言ったら「どうしで私が作るの?」と返したつわもの。それ以来、家事は夫婦でシェアして暮らしたそうです。1915年生まれですよ! 

 大学の建築学科が女性を受け入れなかった時代、浜口を支援した恩師のおかげで東大に聴講生となり、コルビジェの弟子の前川國男の事務所に入り、丹下健三らと建築を学びながら実践した経歴の持ち主です。

 彼女が、『日本住宅の封建制』を書けたのは、ロシア人が建設した大連の町で、キッチンまわりのゆとりを考えられた設計を当たり前として育ったことがまずあります。畳が苦手でベッドで寝る習慣を貫いた。また、敗戦直後に夫について北海道の開拓に名乗りを上げ、現地の農家で台所がないがしろにされているさまから、女性の地位の低さを痛感していたことが大きい。そして、ドイツで生まれたDKのモデルとなる、最小限のスペースとしたヴォーン・キュッヘを知って1941年、父から贈られた新婚当時の家に導入していたのです。

 ヴォーン・キュッヘは、1930年に日本でも紹介され、論文を読んで浜口は知ったと思われます。当時、ヨーロッパでも産業革命によって近代化が進んでいました。そして、第一次世界大戦の住宅難もありました。もととなるキッチンは、1920年代にフランクフルトで生まれた集合住宅に導入されたフランクフルト・キッチン(ドイツ語ではキュッヘ)です。市の建築課長のエルンスト・マイが抜擢した設計者は、女性建築家のグレーテ・シュッテ・リホスキーでした。

 この時代のドイツと言えばバウハウス。2010年にパナソニック汐留ミュージアムで開かれた展覧会カタログ、『バウハウス・テイスト バウハウス・キッチン』を入手して読んでみます。

 リホスキーは、その後ナチスに捉えられ殺されるところを逃れ、2000年に103歳まで生きたそうです。ずっと「キッチンの人」と言われ続けるのを嫌がっていたそうですが、そのぐらいこのキッチンの誕生は革命的だったのです。機能的で動線を考えた最小限のキッチン。その構想が日本のダイニングキッチンに活かされたのです。

 このカタログに書かれた文章で興味深かったのは、当時はフェミニズム・ムーブメントが起こっていて、女性の地位の向上とキッチンが結びついたという話でした。そういえば20世紀初めは、選挙権獲得などの第一次フェミニズム・ムーブメントが起こったとき。キッチンは、女性の地位と深いかかわりがあったのです。




 




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