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物語食卓の風景・東京の2人⑤

「溶けていくような感覚、ですか」と真友子。美紀子は一瞬、驚くほど柔らかい表情を見せた。先輩がこんな顔をするところを見たのは、初めてかもしれない。いつもはかっこよく「仕事できる女」というような、シャープな表情をしているのに。なんというか、菩薩?

 真友子は、母が訪ねてきた遠い昔を思い出す。そのとき、やいやいと「嫁らしさ」を求める母には勢いで「私は子どもを作らない」、と宣言してしまった。母への反発から、思わず放ってしまった言葉だったが、その言葉が呪いのように効いて、本当に子どもを産まない人生を歩んでしまった。

 その頃には、航二とはセックスが間遠になりつつあった頃だったが、子どもは作らないと決めていたわけでもなかった。ただ、夜そのまま寝たほうがめんどくさくなくて楽だし、特に自分から誘いかけるのもなあ、と思って、頻度が減ったのを気にしつつほおっておいたら、まるでそういう関係じゃなかったみたいに、何事もなく寝て何事もなく起きる生活になってしまった。航二が、だんだん家事をやらなくなっても、文句を言えなくなってしまったのは、もしかするとセックスレスになって、遠慮が生まれてしまったのかもしれない。

 たまには、ハグをすることはあるし、触れ合いがまったくないわけでもない。単に自分の仕事が少なくなったことだけが、遠慮の原因ではないような気がする。会うこと=セックスする、だった恋人同士のある時期は、何だか私は強気で何でも言えた。でも、セックスレスになると、相手の考えていることがあんまりわからないような気がする。気になることがあれば聞けばいいのに、聞くべきだと思っても、何となく航二と自分の間に薄くて透明な壁があるみたいで、声を出しても届かない気がする。

 それでも、それまでにつき合った恋人のように、自分を作らなくていいところはよくて、何となく2人暮らしなのに1人でいるみたいなヘンな感覚のままずっと来てしまった。もちろん会話はする。毎日帰ってきたときに誰かがいる、あるいは誰かが帰ってくるというのがうれしいのかもしれない。「今日は寒かったね」「近所の桜が咲いたよ」といった、どうでもいいような会話ができるのがいいのかもしれない。何だか私たちはずっと前から、茶飲み友達みたいな、きょうだいみたいな感じで過ごしてきた。航二はそれでいいのだろうか。

「真友子、どうしたの、ぼんやりして?」

「何でもないです。先輩、何か今、とてもすてきな表情でしたよ」

「え、そう?」

「はい。でも、先輩、ずっと苦しんできたんですね。愚痴でも悩みでも、言ってくださったら私も聞いたのに」

「いやー、何と言うか、自分の中で無意識に触れないようにしてきたんでしょうね。だって真友子は私のこと、ずっと独身だと思っていたでしょう? そういう人に、結婚していたことから説明するのは、面倒だし、結婚していたことを話せば、話が長くなるし」

「確かに。先輩は猫がいれば幸せみたいな顔をしていたし、1人が性に合っているんだろうと思ったんですよ。まさか先輩が、適齢期幻想に縛られた時期を過ごしていたなんて、思いもよりませんでした」

「そこ⁉」

「だって、私たちの世代って、ギリギリそういう圧力感じていた世代だと思うんですよね。20代で結婚して20代で子を産んで。経済力のある男性を見つけなきゃいけないし、家も買わなきゃいけないし。まあ私も子供を産む、というのが抜けていますけど」

「真友子も、子供を産まなかった人だものね。私も産みそこなったから、そこに密かな連帯感を覚えてはいたのね。産まなかった女の引け目とか、何となくの疎外感とか共有しているつもりだった。私の独り合点かもしれないけど」

「いえいえ、連帯感、私も感じていましたよ。そして、産まなかった女性には、それぞれ持っている密かな理由があるのも分かっていたから、先輩の事情は思いもよらないことではありましたけど、踏み込まないのがいいとも思っていました」

「そうよね。私もだからあえて真友子には聞かない」

「ありがとうございます。それが先輩の優しさですよね。でも、そういう深い傷をわざわざ話してくださったのは、やっぱり元夫さんに謝られて心境が変わったからですか?」

「そうよ、そう言ったじゃない! 自分でもちゃんとわかっていなかったけれど、妊娠していながら不注意で流産してしまったことは、ずっと罪悪感を抱いていたの。だって流産って、つまり事故死でしょう」

「事故死……でも、中絶する人もいます。それはだいたいやむにやまれぬ事情があるからで、そういう選択をした人たちを責めることはできないと思います」

「もちろんそうよ。産みたくても産めなくて、中絶する人もいる。宿った子を産まない人には、他人が安易に介入できないような産めない切実な理由がちゃんとある。でも、私の場合は不注意だったし、妊娠に気づいてそれほど時間が経っていなかったから、じっくり考える余裕もなかった。産むか産まないか決めないうちに、その子は死んじゃったわけだから。そのショックを受けているそのさなかに、夫から追い打ちをかけられた。

 そのことを、私はどこかでふたをしていたのね。猫ちゃんたちをかわいがることで、逃げていたような気がする。それでも、猫ちゃんたちは、ずいぶんと私を癒してくれた。ペットのいいところはね、何も言わなくても寄り添ってくれるし、ご主人様を全面的に信頼して許してくれるところよ。

 それに、私がエサをやらないと、あの子たちは何も食べられないでしょう。私がこの子たちを生かしているのねって思うから。拾った猫ちゃんとか、友達の家で生まれすぎちゃったからって譲られる猫ちゃんとかは、特にかわいいわよ。もしかすると、この子たちは路頭に迷うか殺されるかもしれなかったのに、私が飼って助けたのかって……今言って気づいた。

 私、もしかすると、猫ちゃんたちの命を救ったつもりで、だから、それで罪を償った気持ちだったのかもしれない」

「それで、先輩、猫ちゃんを次々と飼ってきたんですね。でも確かに、猫ちゃんたちは先輩がいてくれて、うれしかっただろうし、幸せだったと思いますよ」

「じゃあ、聞いてくれる?昨日のアンナちゃんのこと」

「いや、それはいいです。それとこれとは別。で、先輩は元夫さんの娘さんにはもう会ったんですか?」

「会ったわよ。あなたに話そうと思ったのは、元夫に会って、謝ってもらったからだけじゃないの。確かに彼に会って、棘が抜けたような気はしたけれど、それは彼の言葉によって傷つけられた部分が癒されたからだけで、自分に対して持っていた不注意を責める気持ちには変わりがなかったから」

「じゃあ、娘さんに会って、どんなことがあったんですか」

「そうね。その話をするなら、ちょっと河岸を変えましょうか。お腹もすいてきたし、もしよければ夕ご飯を別のお店で食べない?」

「分かりました。今日は航二も遅くなるって言っていたし、私は大丈夫ですよ。というか助かるかも。そろそろ夕ご飯作るの面倒になっていたから」

「じゃあ、決まりね」


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