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物語食卓の風景・東京の2人⑥

 真友子と美紀子は、美紀子がときどき利用するという中国人経営の店に移動した。周りには、中国人らしいグループが食事しているテーブルや、日本人の夫婦らしい中年男女、親子連れのテーブルなどがあって、どこのテーブルもにぎやかでそれぞれのおしゃべりに夢中だ。最近は、アジアから来た移民たちの店が増え、同郷人らしい人たちが集う店に入っていると、どこの国にいるのか分からなくなるような感覚があって、美紀子はそういう店が好きだ。東京にいながら異邦人になったような気になれる。

 東京出身の美紀子には、真友子のような故郷がない。地方出身の友人が、故郷の話をするのをちょっぴり羨ましい気持ちで聞いていた。両親も離婚してしまったし、自身も独りになり、帰るところがどこにもないような気持ちになることが、ときどきある。そういうとき、外国語が飛び交う店で食事をすると、異邦人に囲まれた自分も異邦人のような気持ちで安心できる。

 小学生の頃に流行った、久保田早紀の歌が頭の中を流れて、ヒロイン気分に浸っていることもある。そういうとき、なんとなく独りでいることが、誰にも侵されない自由を保障されているようで、誇らしい気分になる。こういう誰とも共有できない自分だけの時間を、もし家族を持っていたら味わうことがあっただろうか、と思うのである。

 美紀子はもともと、特に将来に大きな野望を抱いていたわけではない。本を読むことが好きだったし、いろいろな世界を知りたいと思っていたから、記者になればたくさんの世界と触れられる、と思って編集プロダクションに就職はした。だが、それを「一生の仕事に」と思っていたわけではないし、普通に結婚して普通に子育てをする中で、仕事もできればいいな、ぐらいの軽い気持ちだった。

 しかし、順調に普通に結婚したはずが、すれ違いの多い夫婦となって、せっかく授かった子供も流産。そして離婚。人生計画は大きく狂い、その後はずっと独身でいる。編集の仕事は思っていた以上に面白く、夢中で働くうちに年を重ね、子供が産めない年齢になってしまった。縁がなかったからだ、と思っていたけれど、元夫とその娘に会い、もしかすると、自分は再婚することを避けていたのかもしれない、と気がついた。

 その自覚がなかったのは、1人で生きることが意外に苦にならず、むしろマイペースで暮らせることが案外しっくりきたからだ。確かに、毎日真っ暗な部屋に帰ることが寂しいと思ったことはあるし、風邪を引いたときにも誰も助けてくれず、自分でおじやを作らないといけないときは、「このまま孤独死するのかも」と不安になることもある。でも、部屋ではたいてい猫ちゃんが待っていてくれるし、彼らのために夏も冷房をきかせているので、部屋は快適だ。人間はいないけれど、私は孤独ではないと思える。

 それに友達は何人もいるし、誰かが泊まりに来てくれることもある。というか、部屋飲みしていたら遅くなって、「泊まっていい?」と言われて泊めていることが多いのだが。類は友を呼ぶ、というが、美紀子には独身の友人が多い。結婚している真友子とは外で会うことが多く、部屋に泊めたことはないのだが。

 結婚生活があまりうまくいかなかったせいか、誰かと共同生活をすることも面倒だと思ってしまう。何しろ、独りなら忙しいときは外食や中食でも済ませられるが、家族がいれば「料理しなければ」と思ってしまう。自分は片づけていても、家族が部屋を散らかしてしまうこともある。子供時代、たいていいつも散らかっていたリビングを思い出す。美紀子自身は、それほど掃除や片づけが好きなわけではないが、少なくとも衣類はきちんと整理しておきたいと思う。モノは所定の場所にしまっておきたい。そうでなければ、いざ使うときに不便だからだ。

 元夫と暮らしていたときは、よくいろいろなモノが行方不明になった。真っ暗な部屋に帰ってきて玄関で何かを踏みつけてしまい、何かと思って明かりをつけたら、「この部屋には何人住んでいるの?」と思いたくなるぐらい、夫の靴が乱雑に転がっていることがあったりした。

 特別家事にマメだという自覚もなく、結婚するイメージはあっても、良き専業主婦になりたいとも思っていなかった。何となくそれが普通であり、誰もが結婚するのだから、自分もするだろうぐらいの感覚しかなく、かいがいしい女性になるとも思っていなかった。だから、思いがけないところに、思いがけないものがあることや、あるべき場所にモノがないことがストレスになるなんて、結婚しなければ気づかなかっただろう自分の性分だった。

 料理が次々と運ばれてきた。

「ここのね、インゲン炒めがおいしいのよ。ホクホクして、これがインゲンの本当の味なのかって思うぐらい。私にこの味は出せないわ」と美紀子。

 真友子も箸を伸ばす。

「確かに。私はインゲンといえば、胡麻和えとか、スープに入れるとかするけど、こんなに味がしっかりするなんて。なんかイモっぽい感じですね」

「そうかも。昔、母がよくインゲンをソテーにして肉の付け合わせにしていたけど、ときどきキシキシするような食感のときがあって苦手だった。こんな風に調理されていたら、私ももっとインゲンを好きになっていたのに」

「キシキシ?」

「え、キシキシしたインゲン、食べたことない?」

「ないですねえ。インゲンはでも、母が冷凍のを使っていて、東京へ来て自分で料理するようになってから、ナマのほうがおいしいって知りました。それからはナマで料理するように。冷凍のだと味が薄いと思いませんか?」

「確かに。母のはバターで炒めていたから、インゲンの味というよりバター味の印象が強かったわ」

「バター味!子供の頃はそういう味つけ、うちも多かったです。ほうれん草のバター炒めとか、ニンジンのグラッセとか」

「あったあった! これって世代なのかしらね。ファミレスでもそういう付け合わせがあったわねえ」

「ありました!」

 昭和の思い出話で盛り上がる2人。だいぶお腹が空いていたのか、しばらく食べることに夢中だったが、やがて皿の中身も少なくなり、自然に話題は美紀子の元夫の話に戻っていく。

「それで先輩、元夫さんの娘さんに会ったことが、心の中の棘を完全に抜くきっかけになったんですか?」

「完全に、と言われると自信ないけど、自分を許すきっかけにはなったわよ」

「娘さんとの話、聞かせていただけますか?」

「いいわよ。そうね、どこから話しましょうか」

 

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